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「飲む」も動詞で、「酒を飲む」も動詞

「飲む」が動詞なら、「酒を飲む」も動詞であるとは、松下文法に於いては至極当然の考え方で、またこの考え方は漢文の構造を理解するに頗る当たる。とはいえ、松下文法に馴染みのない方もおられましょうから、簡単に説明しておきましょう。まず「飲む」が動詞であることは問題ない。問題は「酒を飲む」も動詞である、というところでありましょう。これは「飲酒す」とでも考えればよろしいと思います。これと同様に「読む」が動詞なら、やはり「書を読む」も動詞であります。「読書す」と考えればよい。松下博士は此の考え方を徹底します。我々も生半可な覚悟ではなりません。つまり、上記の例は客語についてでありますが、この考え方はなにも客語にのみに適用するのではないのです。

「通勤す」が動詞なら、それに修飾語を附した「電車通勤す」も動詞であります。「鳴」が動詞なら、それに主語を附した「雷鳴す」も動詞であります。完成した概念の主は皆いづれも動詞であります。

「書を読む」が動詞なら、それに修飾語を附した「緑陰に書を読む」も動詞であります。「緑陰に書を読む」が動詞なら、それに主語を附した「我、緑陰に書を読む」も動詞であります。要するにすべて「読む」の一種であります。「読む」という概念が主で、それ以外のものは従であります。

以前にも扱いましたが、

是不亦責於人者已詳乎

の如き、ちょっと変わった構造の句があります。「責於人者(人に責めること)」が主語で、「 已詳(已(はなは)だ詳らかなり)」が叙述語であります。本来「月出」を否定にしても決して「不月出」とはならないはずです。然らば、上句は一体どういう訳合いでありましょうか。

まず「責於人者已詳」が動詞であることは上記に述べた理屈を適用したまででありますから、問題ないでしょう。「已詳」という動詞に、「責於人者」という主語が付いただけです。出来た結果は動詞です。問題となりますのは、この動詞が一旦名詞化しておる。動詞性の名詞になっておるのです。これは、出来た結果として動詞であリますから動詞に言えることは連詞の動詞にも当然言える、というまでのことでして、何も目新しいことを申しておるのではありません。「人に責めることがはなはだ詳らかなり」という動詞が、「人に責めることがはなはだ詳らかなるコト」という名詞になる。こういう名詞のことを表示態名詞というのでありますが、要するに辞書に載ってるのと同じ、なんの判定性もない名詞ということです。話はここで終わりませんで、さらにこの表示態名詞が再び叙述性を帯びる。すなわち叙述態名詞となるのです。「人に責めることがはなはだ詳らかなるコト」が「人に責めることがはなはだ詳らかなるコトなり」となるというのです。為に松下博士はこの句を読み下して、「人に責むるもの、已だ詳なるならずや」(五百三十三項)としておるのです。「詳なる」は連体格で下に「こと、もの」を補うと分かりよい。実際、八百十八項では、同様の構造である「不亦待其身者已廉乎」を読み下して、「亦た其の身に待つ者、已だ廉なるものならずや」とされております。


「月不出」の「出」が動詞でありますように、「責於人者已詳」もやはり動詞と同効の叙述態名詞なのです。「出」は単詞で、「責於人者已詳」は連詞であるというのみです。ただ端から叙述態名詞であるというのではなく、

一、まず連詞的動詞となり、
二、それが動詞性名詞(表示態名詞)となり、
三、其の後、再び叙述性を帯びて叙述態名詞となるのです。

「人に責めることがはなはだ詳らかである(一)、っていうそれ(二)である(三)」の意となるのです。
「X」の部分にはなんでも叙述態名詞を入れてよいのであります。単詞の叙述態名詞でもよいし、連詞でもよいのです。単詞の例としてはたとえば、「不亦君子乎」などがあります。「君子」は端から叙述態の名詞です。

この理屈が分かってさえしまえば、「不」の下に「S+V」があってもなんら問題のないことがはっきりしましょう。





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一字の力

春秋左氏傳隱公元年に共叔段の乱についての記事があります。大意を申せばこういうことであります。

鄭の君である武公は夫人として申より武姜を迎えた。そして莊公と其の弟に当たる共叔段を生む。夫人は難産であった莊公のことを非常に憎み、弟の共叔段のほうを寵愛するようになる。よって武公に弟のほうを太子にしてくれとしきりに頼むが、結局受け入れられず、武公の世を去った後には兄のほうが君の位に即くことになる。そうすると夫人は弟の共叔段のために制の地を請う。ここは要害よき都会でありますが、莊公は「そこは険阻にある地でありますが、虢叔はその険阻を恃み徳を修めず却って滅びましたので、弟のためにはよくないでしょう」といって断った(筆者註:断った真意は何か。この尤もらしい理由は本当に弟を思う気持ちから出ておるのか)。夫人はそこでこれまた大きな都会である京を請うと、莊公はこれを許す(筆者註:制ほどではないにしろ、これまた法外の土地を与えたのはなぜか。寛大の精神からか)。

ここに於いて大夫の一人が莊公を諫めてこう言った、「家老の城があまりに大きすぎれば、殿様の害となりましょう。京城はあまりに大きく、弟君の御勢力を抑えることができなくなります」と。之に対して莊公は曰く、「母上が望まれるのであるからして、仕方があるまい」と。再び諫めるも、「驕り高ぶり道に背いたことをするようになれば、勝手に身を亡ぼすであろうよ。とにかくもう少し成り行きを看よう」と言って結局聞き入れない(筆者註:問題を棚上げし、決断しないのは単なる愚昧なる君であるからか)。

その後共叔段は驕りを長じて勝手に課税しそれを我が物とし始めた。民は鄭にも共叔段にも租税を出さなければならない。ここでまた大夫の一人が莊公を諫めてこういう、「国を弟に譲るか、それができないのならば是非彼を除き去って頂きたい」と。莊公曰く、「其の必要はない。禍は今に彼に及ぼう」と(筆者註:これまた問題の先延ばしか。やはり愚昧な君なのか)。

共叔段、さらに勢力を伸ばす。

「このままでは、共叔段はますます勢力を併せ手に負えなくなります」と再び諫めるも、莊公は、「道に外れたことをしておるのだから、どれほど力を得ようとも、自然に滅びようぞ」と言って聞き入れない(筆者註:最早救いようの無い魯鈍な君であろうか)。

共叔段、いよいよ城を固め人民を集め武器を整え、鄭に攻め入ろうとし始めた。夫人はこれを内部から引き入れようという手筈になっておる。莊公、ここに於いてかその情報を察知し曰く、「今こそ討つべきときである(原文:可矣)」(筆者註:「矣」の一文字が全てであります)と言って京を攻める。

京の人民の心は忽ちにして共叔段から離れて皆叛いてしまった。莊公は苦戦の末弟を討ち、母は幽閉した。




莊公の言葉のところの原文だけ掲げますとこうであります。

姜氏欲之、焉辟害
多行不義、必自斃、子姑待之
無庸、將自及
不義不暱、厚將崩

最後の「可矣」以外はどれも所謂助辞、松下文法に所謂形式感動詞がありません。「矣」は叙述の確かめであり、この「矣」あるがために、莊公がなかなかの遠謀ある政治家であることを知るのです。この「矣」があるために徒に問題を先延ばしにしていたのではなく、初めから弟を討たんとする深い思慮のもとにそうしておったことが知れるのです。弟が攻めてきたからどうしよう、よし攻めよう、というのではなく、今か今かと機の熟するのを待ち望み、そして今こそ討つべきである、というのです。弟を討たんとする観念が突然に現れたのでなくして、もとより在ってそれを「矣」で以って確かめておるのです。

すなわち、最初に「制」の地を請われたときにこれを断ったのは決して弟を思う気持ちから出たのではなく、将来攻めるときに要害では不便であるからそれを避けんとの思いからであり、京という大きな街をやったのも驕りを誘発し自ら瓦解せんことを期する心から出たのであり、群臣の度重なる諫言をのらりくらりとかわして決断しなかったのも、ただ時の熟するのを待たんとする考えからのものであり、すべて初めから弟を討つために謀られたことであったのです。弟は其のことに気が付かなかった。

これらの内容をただ一つの「矣」の字でもってあらわしておるのであり、直接的には莊公の用意周到なる政治家ぶりを描いてはおらんのです。


【参考】
湯浅 廉孫 『 漢文解釈における連文の利用 』(五十項)




観念の表し方

■日本語と漢文との観念の表し方の相違

日本語は連辞より詞を作り、漢文にては主に明確に思想分解が行われ詞と詞との統合によりて観念を表すのであります。「雪らしい」は「雪」と「らしい」との二詞ではなく、「雪らしい」で一詞です。漢文の「如雪」は「如」と「雪」との二詞です。「ぞ」は辞でありますが、「也」は詞であります。「雪らしいぞ」は一詞で、「如雪也」は三詞であります。文法的に直訳すれば、「雪に似ている、そうである」とでもなります。こうすれば「雪に」は名詞(客格)で、「似ている」は動詞となり、連辞ではなく連詞(客体関係)となります。「雪の如きなり」と訓めば「雪の」は「如き」の名詞部に対する連体語であり、「なり」は辞であり、感動詞である「也」とはまったく文法的性能が異なるのです。「雪の如き」は「なり」があって初めて文が結ばれますが、「如雪」は「也」がなくても良いのです。「雪の如き」と「なり」とは辞と辞との結合であり、「如雪」と「也」とは詞と詞との統合なのです。

表さんとする観念が同じでも、それを表す方法は一通りではありません。「瀧」(A)と言えば単辞的単詞であり、「垂直直下的急流」(B)とでも言えば連辞的単詞であり、「絶壁より急下する水流」(C)と言えば連詞となるのです。(A)から(C)に到るほどに思想分解力が強くなるのです。時計も分解すれば組み立てるのが大変なように、観念も明確に分解すれば組み立ては複雑になります。この連詞の成分の統合論を松下文法にては「連詞相関論」というのです。





比較の相

支那の文学者、林語堂曰く、

更に注意せねばならぬのは、比較級及び最上級は、いくつかの物を比較するためにのみ用いられる、ということである。アメリカのギャングのアル・カポネよりもbetterな人間は必ずしもgood(善良)な男とは限らないし、中国の逓信大臣よりもmore honestな男が毛頭正直者とは言えないこともあろう。比較的な言い方をすれば、この学生はあの学生よりもolderではあろうが、絶対的に云えば双方とも真にoldであるとは言えない。それ故、原級(old)はどこまでも絶対的であるのに対して、比較級と最上級(older、oldest)は、相対的なものである。

かくして我々は、better manはgood manよりbetterなわけではないという結論に達し、同時に、the best manが実際にはbetter manより一段と善良なわけでもないことを知るのである。the best manは、単に残余の誰よりもbetterなだけである。もし、Aが十三歳、Bが十二歳、Cが十歳だとすれば、Aはたとえ、the oldestだとは言っても、たかだかBとCよりolderであるに過ぎない。其の上、Aは実際のところ、毛頭「old」ではないのである。



松下博士は、概念が比較的であるか、そうでないかを分けてそれぞれに比較態、区分態(英文法に所謂原級)という名称を附せられております。たとえば、山は高いといえば、この「高い」という概念は山を主としてその性質を表明したまでで、高いか低いかで言えば「高い」であるというわけです。こういう概念の扱い方を区分態といいます。比較態とは概念を区分的に扱うのではなく、或る者を対手にしてその程度を論じるのです。ある基準を設けてそれに対してはどうである、ということを論じるのが比較態ですから、必ず比較の対手を客語に取ります。比較の対手である概念を得て初めて全き意義となるのです。漢文の場合は動詞(連詞的動詞を含む)の下に「於、于、乎」の形式動詞を取って、さらにその下に比較の対手を客語として取ります。要しますに、漢文では比較を表すに依拠性を以ってするのです。我々が比較格を以って表すものを、彼らは依拠格を以って表すのです。



比較について、明治から昭和にかけての漢学者、服部宇之吉博士の論理学書の説明が分かりやすいので以下それを引用します。

【相対名辞と絶対名辞との別】

若し茲に一種の事件有りて二人(或は二物)若しくは多数の人(或は物)均しく此の事件に関係し而も之に関係するに就て各々其の分を異にし両方に対立する場合に於いて此の事件に基づきて双方の人(或は物)に与へたる名称を相対名辞と云ふ。之に反して斯かる関係なくして与へられたる名称を絶対名辞と云ふ。(省略)夫婦、君臣、因果等は皆相対名辞なり。(省略)茲に注意すべきことは何れの語も多くは両々相対して用いらるるものなることなり、例之ば長短、大小、美醜の如し、美とは醜に対する語、長とは短に対する語なり、美なくんば醜豈に獨り存せん、長なくんば短豈に獨り存するを得ん、されどもこれ等は唯両々相対するに止まり、同一の事実若しくは事件に其の分を異にして関係するにはあらず、故にこれ等をば相対名辞とは云はず。然れども若し二物を比較して一物は他物よりも長しと云ふ時はより長してふ関係に入り来る、二個の物名は相対名辞となる


特に下線部に注意してください。青下線部は、これは言ってみれば区分態のことで、赤下線部は比較態のことに当たります。

富士山と泰山とを対手せしめ、その一事件において一方より見れば、「富士山高於泰山(富士山は泰山により高し)」であり、他方より見れば、「泰山低於富士山(泰山は富士山により低し)」となるわけです。

すなわち、比較態とは、或る物と或る物とを一事に於いて関係させ、一物(主語)の性質(比較態の動詞)を他物(比較の客語)に対して論じたものであるということができます。「父」という概念が「子」という概念なくして了解せられないように、比較態の概念は比較の対手なくしては解せられないのです。

比較の相は概ね状態動詞(所謂形容詞)によって表されますが、比較的に考えられたところの動詞ならなんでも比較態になります。日本語で言えば、「歩くよりタクシーに乗ろう」などがその例です。「タクシーに乗ろう」という連詞的動詞が「其のほうが善い」という形式的意義を帯びて比較的に考えられておるために、その形式的意義の比較の対手として客語「歩くより」を取るのです。(『改撰 標準ニ本文法』六百七十七項)

漢文の例を示せば以下のようなものです。

身於為天下、則可以託天下、愛身於為天下、則可以寄天下 (莊子在宥)

「為」は本動詞で「治む」の意。赤字の「以」が比較的に考えられた前置詞性単純形式動詞です。「貴」は其れに対する補充語。「貴以身(貴ぶに身を以ってす)」という概念を「為天下(天下を為む)」という概念に対手させて考えておるのです。ただ単に自分の身を大事にする者を天下を託するに値するものであるというのではなく、天下を治めるという大なる事業に比較して、猶そんなことに頓着せずに自分の身を大事にするようなものこそ天下を託すに値するというのです。

為天下、寧貴以身 (天下を為めんよりは、寧ろ貴ぶに身を以ってせん)
貴以身、甚於為天下 (貴ぶに身を以ってすること、天下を為むるにより甚だし)

などというに同じ。

「與」について、松下博士云う、

「與」が比較の対手を表すのは其の修飾される動詞が「其のほうが優っている」といふ形式的意義を帯びるから、「與」が其の形式的意義に対して対手を成すのである。 (三百四十四項)







杉田玄白 『解体新書』

以下は「解体新書」の凡例を記した箇所。
赤字は私が入れたもので、それぞれの箇所に簡単な文法的説明を施していきます。「何項参照」とあるのは、松下博士の『標準漢文法』における該当箇所です。



(い)
「斯」は副体詞(この)。代名詞の連体格的用法(これの)ではありません。副体詞「斯」は連体格として下の「書」に従属します。すなわち「斯書」は連体関係の連詞。連体関係の連詞の代表部(統率部)は被連体語の「書」で、これが名詞ですから「斯書」は全体として連詞的名詞。この連詞的名詞は修用格的用法(題目語)にあります。「斯書譯某書(斯の書は我、某書を訳したるなり)」と「我」を補うと分かりよい。

主体的提示語と看做した場合、「斯の書は、和蘭人(オランダ人)与般亜単闕児武思(ヨハンアタンキュルムス)の著すところの『打係縷亜那都米(ターヘルアナトミイ)』を訳したる者なり」と「米」の字から「訳」に返って読むこともできますが、此の読み方はやや理屈に流れすぎたものといえましょう。原文の訓点に従って読んだ場合は、「斯の書は、和蘭人(オランダ人)与般亜単闕児武思(ヨハンアタンキュルムス)の著すところの『打係縷亜那都米(ターヘルアナトミイ)』なる者を訳す」となります。この訓み方でよいと思います。

(ろ)
「和蘭人」と「与般亜単闕児武思」との連詞関係は修用関係。「和蘭人」は名詞にして平説的修用語。「聖人孔子」の「聖人」と「孔子」との関係に同じ。「聖人の孔子」との違いに注意。(『標準漢文法』六百八十七項、「事物の種類の修用語」参照)

「与般亜単闕児武思」は既に「和蘭人」という類の概念で以って修飾されておりますから、これは固有名詞でして模型名詞ではありません。仮に「与般亜単闕児武思、和蘭人(与般亜単闕児武思は、和蘭人なり)」とあれば、この「与般亜単闕児武思」は模型名詞。なぜなら、「与般亜単闕児武思」は人を指すのでなく、固有名詞を指すためです。人を指すとしての名詞ならこれもまた固有名詞。その名詞が模型名詞か、然らざるかはその名詞の運用次第。

(は)
「打係縷亜那都米」は模型名詞。「医学書」と言えば普通名詞。ここでは概念を表すに表象の模型を以ってしておるのです。「者」は前語の外延の再示。「打係縷亜那都米」と「者」との関係は実質関係。実質関係の連詞の代表部は形式語でありますから、「打係縷亜那都米者」の代表部は「者」(単純形式名詞)。其の格は「訳」に対して客格的用法。

「連体格的用法」や「修用格的用法」、「客格的用法」などと、わざわざ「的用法」と持って回った表現をしておりますのは、漢文の詞には明瞭に格を示す記号がありませんで、そういうのを一般格といいます。「酒持って来い」の「酒」などと同じです。一般格ではありますが、用法は種々あるわけです。そこで「~的用法」という表現をしておるのです。客格的用法は客格ではないのです。客格は「酒を」なのです。「酒持って来い」の「酒」は一般格の客格的用法というのです。

(に)
「就」は「就之」の意。

説話の続きの上から客体が決まっている場合には客体が概念化せずに済むから客語が要らない。 (『標準漢文法』六百四十二項、一般性非帰着化(三)参照)

(ほ)
「者」は主体的用法(「者」の用法。百十二項参照)。「受」の主体を表します。「受」は「者」をして自らの主体を表さしめて、これに対して実質語となります(五百九十三項「特殊性合主化」参照)。「someone who 就受 其の医術(ソレガ其の医術を就受するソレ)」の意。学習者本人を指します。もし「所就受其医術(就いて其の医術を受くるところ)」とあれば、これは自分が師事するところのオランダ人医師を指すことになります。すなわち、「someone under whom  (主語) 受 其医術」の意。

(へ)
「有」「無」「多」「少」などは皆帰着性の動詞で、客語を取るものです。主語が動詞の下に来るなどと考えないように。「有嶋」は「嶋を有り」であり、この「有」は自然的他動を表し、「嶋」はその他動性に対する客語です。日本語で言えば、「嶋が在る」ではなく、「嶋有り」です。(帰着形式動詞「有」については百九十三項参照)

然るに原漢文においては客体概念が提示されています。平説に「オランダ人に就いて其の業を受けるものが多い」と言うのでなしに、「受けるものについてはそれは多い」と提示されておるのです。(「提示的修用語(直接客体の提示)」七百一項参照)

(と)
「至」は一般性合主化。

其の詞の意義上主体が一定している事件を表すものは合主化する。 (六百項)

この「至」の主体は何か、何が至るのか、「場合」が至るのです。彼らの術を学んでやっと生活が出来るというくらいであるから、どうしてその「場合」が、彼らの書を読み彼らの学問を研究する「場合」に至らんや、というのです。

(ち)
「精乎」は実質関係の連詞。「乎」は無論無くとも構いませんが、これある為に「精」が依拠性であることが明らかになります。漢文の名詞は格を表すに粗なため、形式動詞で其の不備を補うのです。「乎」は前語の動詞の依拠性なるを表す単純形式動詞です。「精乎」全体で連詞的依拠性動詞となります。すなわち次に来る語は依拠格的(~に)であります。

(り)
この「者」は客体的用法(百十四項参照)。「意者(おもうに)」の「者」の用法もこれに同じ。直訳的に読めば、「ソレヲ思うソレ」であります。「所意者」とした場合は意味は同じですが、この「者」は「所意」の「所」を指し示すものでして、「意」の客体概念は「所」が表します(百十八項(七)参照)。

(ぬ)
「徳乎」はさきの「精乎」と同様、連詞的依拠性動詞。「有徳乎四海者」全体は連詞的名詞で、題目語(修用語)。

(る)
「作用異常」の「異常」は、図の送り仮名にある通り、「常に異なる」と読んでおりますが、これをもう一度漢文に直すと「常異」としてしまう人もおるかもしれない。我々の感覚では「常に」と言えば修用語に聞こえる(無論修用語の意味にも使います)、しかし、原文の「常」は依拠格でありまして、「異」という作用が「常」において行われると謂う意味での「常に」なのです。「先日聞いた話に異なりて」の「に」と同じです。「常」は修用語ではなく、客語です。もちろん、「異常(いじょう)」とそのまま音で読むも可。

(を)
この「得」は修飾形式動詞(『改撰 標準日本文法』では「接頭形式動詞」としてある)です。被修用語によって実質的意義を得る形式動詞です。日本語の例を挙げれば、「も言はず」「打ち忘る」「掻き曇る」などの「得」「打ち」「掻き」であります。ただこれらも一詞化(単純観念化)すれば修飾形式動詞ではなく、助辞(接頭辞)となります。

「打ち」や「掻き」は、大槻文彦博士(祖父は杉田白、前野良の弟子である大槻玄沢)の『言海』にはこう説明してあります。

打ち鳴らす、打ち砕くなどは、打つ意あるを、かやうに多く他の動詞に重ね用いるよりして、遂に唯其の意を強くするばかりの用ともせしならむ。

動詞の意味を強くする接頭語。

要しますに、形式的意義のみにて、実質的意義は後語によって補充せられるのです。「打ち忘る」全体で実質・形式相備わる動詞となるのです。

「得て言はず(不得而言)」と言えば、「得」は修飾形式動詞でありますが、「言ふを得ず(不得言)」と言えば、「得」は帰着形式動詞です。漢文の場合は、間に「而」があれば修飾形式動詞であることが明瞭になりますが、なければ不明瞭になります。

また漢文の「得而」は概ね否定か反転語となる場合に用いられます。ここも上に「靡(なし)」という否定語があります。

(わ)
「業」は動詞。厳密に云いますと、名詞性動詞(変体動詞)の思念的用法(~とす)というものです(四百三十六項(三)参照)。「~にす」と解すべきものは客観的用法といいます。たとえば、以下のようなものがそうです。

是欲臣妾我也、是欲劉豫我也 (戊午上高宗封事)

「臣妾」も「劉豫」も名詞性動詞の客観的用法。「使我為臣妾(我をして臣妾ならしむ)」「使我為劉豫(我をして劉豫ならしむ)」の意。実際に客体を変じて然あらしむることをいうのです。「我」は「臣妾」「劉豫」が臨時に帯びたところの「為」の他動性に対する客語です。其れに対して訓読したときの「臣妾に」の「臣妾に」は、自身が臨時に帯びたところの「為」の一致性に対する客語ですから、動詞の一致格的客語です。つまり、突き詰めて言えば、これも四百六十七項にある「動詞性再動詞」に分類することも不可とは言えないものですが、一致格的客語の材料が名詞であることに変わりはありませんので名詞性動詞とするの穏当なるには及ばないものです。

「動詞性再動詞」は、「其心(其の心を正しくす、または正しとす)」「我国(我が国を強くす、または強しとす)」などを言います。()内の訓読はそれぞれ客観的用法と思念的用法の場合です。一致格的客語の材料がいずれも形容動詞であることを確認してください。



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