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韓非子外儲說右上

韓非子(外儲說右上)よりいくつか気になる文法事項を書きとめておきます。佐々木藤之助氏は漢文学習の秘訣の一つとして、「複雑な構文に出会ったときにはそれを抜書きして練習することだ、著者はかくして十二三の短文を得た。あまり多くはないものである」と述べておられますが、細かい文法を気にし始めますと、少しく読書すれば其のたびごとに書き留めておくに足る文例にあたるものです。以下其の例です。
由之野也、吾以女知之、女徒未及也、女故如是之不知禮也、女之餐之、為受之也
孔子の弟子の子路が自費で民に施しをしてやったことを孔子が責めた言葉の一部であります。「由之野也」は一種の感嘆でありますから、由(子路のこと)は粗雑であるなあ、の如く解すればよいのでして、「~之+動詞+也」の構造であるからとて、表示態名詞化して「由の粗雑であること」とはしません。しかし文法上は主体的連体語と被連体語との関係であることに変わりはありません。

「如是之不知禮也」は、「是くの如くこれ礼を知らざるなり」などと一般に訓まれますが、「聖人垂教、不如是之迂也」の「如是之迂」と同じ句法と看做せなくもない。「如是之迂」が「是くの如きの迂なる」であるように、「如是之不知禮也」も「是くの如きの礼を知らざる」であります。一旦表示態名詞化して再び叙述態名詞になります。

訳せば「お前は粗雑であるなあ、私はお前が之をわかっておると思ったがまだ分かっておらぬようだ、

「是くの如くこれ礼を知らざるなり」のように「如是」を連用語とした場合 ⇒ お前は故(まことに)そういう風にして礼儀を知らないのだ

「是くの如きの礼を知らざるなり」のように「如是」を連体語とした場合 ⇒ お前は故(まことに)それほどの礼儀知らずというものである

このような文法的構造と考えれば「如是之不知禮也」に「不」を付けて、「不如是之不知禮也」としても何も違和感なく訓めましょう。以前に見ました「是不亦責於人者已詳乎」の構造と同じです。読み下せば「是くの如きの礼を知らざるものならざるなり」となります。「不知禮なるものならず」に同じ。



令之昆弟博
「博」は「博戯」に同じ。すごろく。一般に「之をして昆弟と博せしむ」と訓みますが、ちょっと読み難い。もし理屈を強いれば「昆弟」を平説の修用語とし、動作の対手を表すに動作の方法を以ってしたとでも説明することになります。「郷人飲酒」の「郷人」などに同じ。また稀な用法とは言え「之」を寄生形式副体詞として「之(この)昆弟をして」と訓むことができないわけではありません。註には「令之之之作與(令之の之は與と作す)」とありますから、これに依って書き改めれば、

令與昆弟博 (昆弟と博せしむ)

となります。これは特に問題ない。



乃輟不殺客大禮之
殺そうかと思ったが止めて、却って客としてこれを優遇したということであります。この「客」は松下文法に所謂名詞性動詞の他動性用法として看做せばそれでよく、註にも
客客待也、属下句 (韓非子翼毳)
とあります。「客は客待なり、下句に属す」と訓みます。この註によって「客大禮之」は「客として大いに之を礼す」とでも訓むことになりましょう。「客」は前回扱いました処置的他動です。「之を処置するに客的状態となして大いに礼するを以ってする」のです。

然るにまた註には、
客下一有而字
客絶句
「客の下に一に而字有り」「客は絶句なり」とあります。この解釈に則れば「乃輟不殺客、而大禮之」と書き改め、「乃ち輟(や)めて客を殺さず、而して之を大いに礼す」とでも訓むことになりましょう。この区切り方は、前に「客張季之子在門」との句がありますから、解釈上も亦自然であるのです。「客」の一字が、「客を」か「客として」か、一方は名詞で、他方は変態動詞であります。解釈の定まることなくしては、文法も決定され得ないのです。


犀首也羈旅新抵罪其心孤

塚本氏の本ではこれを「犀首也羈旅、新抵罪、其心孤」と句読してありまして、「犀首や羈旅なり、新に罪に抵(いた)り其の心孤なり」と訓まれております。新釈漢文大系では「犀首也羈旅新抵罪、其心孤」と句読し、「犀首や羈旅にして新に罪に抵る、其の心孤なり」と訓んであります。さらに解説には、事柄の順序の上よりして「犀首也新抵罪羈旅(新に罪に抵りて羈旅なり)」の如く解釈すべきであるとあります。すなわち罪を得たことを原因として外国にて臣たる身であるというのです。しかしこれは客観的時制上の話で、観念上は「羈旅」なる概念がまず在りて、後に「新抵罪」なる概念が来るとするも何ら不都合はないわけでありますから、殊更に客観的時制に合わせるに及ばないと思う。日本語でも「帽子を売る、町へ行く」との二つの概念を必ずしも客観的時制に合わせて、「町へ行って、帽子を売る」とばかりはしないでしょう。「帽子を売りに、町へ行く」(目的の一致格といいます)ともいえるのです。目的のための方法(町へ行く)を先に言おうが、目的(帽子を売る)を先に言おうがそれはどちらもあり得べきことであります。

林間暖酒、燒紅葉
などは、上記の理屈を当てはめて、すなわち「林間暖酒」を目的とし、「燒紅葉」を其の方法として考えれば、「林間酒を暖むるに、紅葉を焼く」と訓めましょう。しかし漢文では日本語のような助辞が無いため、妄りに入れ替えるとよく分からなくなるのでありますから、此くの如き例文などは方法格の一運用として看做されることになるのです(『標準日本口語法』二百六十八項)。読むには、「酒を暖めんと(の観念あり)て、紅葉を焼く」とします。主観的には「酒を暖める」が先なのです。


話がそれましたが、これは「新に罪に抵るに羈旅とあり(たり)」と訓むもよい。旅の空にて臣事しておるのは本国にて罪を得たるに於いてするのです、為に其の心はさびしい、というのです。「羈旅たることを新抵罪に於いてする」のです。




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自然的他動と其の漢訳との比較、また変態動詞の他動性用法の他動性の意義について

まず形容詞の自然的他動の例を挙げますと、
夜を寒み
名を惜しみ
月を清み
の類を指して言います。もしこれをそのまま客体関係として漢訳して、

寒夜

としたならば、どうでありましょう。寒き夜と訓めることは無論でありますが、またこれは「以夜為寒」の意となりまして、自然的ではなく明確に作用の主体を認めるところの意志的他動と言うことになります。松下文法に所謂名詞性動詞の他動性用法であります。然らば自然的他動をどう漢訳するかということになりますが、自然的他動と自動とは同義の関係にあるわけでありますから、単純に、

夜寒
でよい。「夜を寒み」は夜を寒く持って、の意で、自動にすれば「夜が寒くて」であります。

しかし漢文にも自然的他動を表す動詞はありまして
有、無、多、少、成、懸、富、下、聞、見、
などであります。「有」の意義を帯びれば皆自然的他動を表します。


士卒死傷 (自然的他動) ⇔ 士卒死傷多 (自動)

死傷」は自然的他動です。「死傷するを多み、死傷することを多的状態に持つ」であります。自動にすれば「死傷することが多くあって」であります。自動においては甲の動作であるものが、自然的他動においては乙の甲を客体とするところの他動になっております。甲の動作も乙の動作に同化せしめられておるのです。

自然的他動は他動の四つの意義、すなわち「処置、生産、保有、使用」のうちの「保有」の意義であります。


次に変態動詞の他動性用法の他動の意義についてでありますが、これは「処置」であります。

強國
これは「国を処置するに強的状態とするを以ってする」のです。保有である自然的他動の「下雨」が「雨を下的状態とありて持つ」となるのと比較すればよく其の観念の扱い方において類するところあるを発見しましょう。

犬馬畜伋
「伋を処置するに犬馬たる状態として畜ふを以ってする」のです。

劉豫我
「我を処置するに劉豫たる状態とするを以ってする」のです。

「三枝の中にを寝む」の「寝む」が「三枝の中にを」に対する関係と其の他動の形式的意義は同じです。保有は「有」の形式的意義を含み虚主的動作であるのに対し、処置は「為」の形式的意義を含み且つ意志的他動であります。

「寒夜」は「寒有」の意義(保有)にならず、「為寒」の意義(処置)になるのです。


【まとめ】

●もし形容詞の主語を妄りに客語の位置に配置すれば、処置的他動の意義となってしまう。(例)「重義」とすれば、「義を重しとす、重んず」の意になる。しかし「義を重み(す)」と訓めないわけではありません。解釈次第であります。

●一部の本動詞は自然的他動となる。その場合は皆「有」の意義を含む。(例)「懸明月」は明月を懸かっている状態に持つのであります。「富國」なれば、「国を富む状態に持つ」のであります。意志的他動ならば「国を処置するに富むを以ってする」の意です。解釈次第であります。



より一般的に修用関係を考える

さきに『戯論文法 「曰く、謂へらく、憾むらくなど(帰着性従属的用法)」 』に於いて、帰着性従属の修用語としての被修用語に対する用法の如何を論じましたが、あれは考えてみれば、なにも帰着性従属に於いてのみの話ではなく、もっと一般化して論じることができるものであるわけであります。帰着性従属に於いて論じたことは簡単に言えばこういうことです。たとえば、「曰」と云えば、この「曰」はもともと生産性に対する客語すなわち「~と」という客語を欲します。「長男曰太郎、次男曰次郎」といえば、「長男を太郎と曰ひ、次男を次郎と曰ふ」の如きであります。しかし、帰着性従属的用法になりますと、「子曰色難(子曰く、色難し)」のように「曰」は帰着語として自身に欠けている客語を統率するのではなく、却って修用語として自身の客体概念に従属していくことになります。とはいえ、「曰」は元来の性質として生産性であり、生産格的客語を前提としておりますから、「色難」というのは「曰」の帰着性に対してもはや客語ではないにしろ、客体概念であるとは言える、よってこれを客体的統率語と名づけたわけであります。今例として特に帰着性の一つである「生産性」を挙げたまでで、さきの記事では、このことが帰着性全般に言えることである、とまあそういう内容のことを憚らずも述べ立てたのであります。然るに、そのときには気づきませんでしたが、これはそもそも帰着性にのみ止まる事ではありません。さきの記事の内容は至らざるところ無きまでには議論を突き詰めてはいなかったのです。

今回は前回の議論をさらに一般化してみようというのです。すなわち、主体的提示語であろうが、客体的提示語であろうが、実質的提示語であろうが、属性的提示語であろうが、みな先の記事の理屈が適用できるのです。これらいづれも連用格の提示されたもので、修用語でありまして、其のうち属性的提示語以外はもと補充性の概念です。属性的提示語は端から修飾性の連用語です。

帰着性従属語 ⇔ 客体的統率語
主体的提示語 ⇔ 叙述的被修用語
客体的提示語 ⇔ 帰着的被修用語
実質的提示語 ⇔ 形式的被修用語
属性的提示語 ⇔ もとから修用関係にありますから、名付け難し

属性的提示語を除いては、皆もと補充語でありますから、一旦実質化して修飾語になったにせよ、絶対化したというわけではないのです。よって各々の統率語は其の相対性の絶対化に資するところの被修用語なのです。「酒は飲まない」と云えば、この「酒は」には「酒を」という客体的性質が含まれており、「飲まない」には「酒を」に対応する帰着性が含まれておるのです。ただそれが提示のために非帰着化したというまでです。

主体的提示語というのは、主体概念が提示されたものであります。提示されずに主体を主体として表した場合には、主語です。主語は補充性の連用語で叙述語に対するものです。しかし、提示されますと、主体的提示語となりもはや主語ではない。提示前は補充語であったにせよ、提示されれば修飾語です。ここからが重要でありますが、提示前に叙述語であったものは主体が提示された後は、被修用語になる、なるにはなりますが、やはり主体に対する叙述であります。叙述語ではないにせよ、叙述概念であります。主体的提示語も主語ではないにせよ、主体概念を含むものです。その意味において相対関係が無いとは言えない。「私は酒を飲む」と云えば、「私は」は主体的提示語でありまして、「酒を飲む」は被修用語であります。「酒を飲む」は被修用語ではありますが、同時に主体についての叙述を含むものです。松下博士はこの被修用語には殊更に名を付けておりませんが、名づければ叙述的被修用語です。こうすれば主体的修用語という術語とよく対応します。

今主体的提示語を以って話を進めましたが、これは客体的提示語にも実質的提示語にも当てはまります。これを要すれば、主体にしろ、客体にしろ、実質にしろ、これらは補充性の連用語でありますから、一定の統率語を予定しております。また統率語のほうでも主体や客体や実質がなければ、完全な概念になりませんから、従属語が提示されて補充語ではなく修飾語になったにせよ、補充性としての従属語をまったく無視することはできないということです。先の例で言えば、「私は酒を飲む」という文では「酒を飲む」が被修用語でありますが、これはある主体の動作を叙述しておりまして、その主体は主体的提示語により暗示され、為に「飲む」は合主化しておる、という風に理論上説明されるのです。「私は酒を飲む」を主語を補って表せば、「私は、(私が)酒を飲む」となりますが、そんな風にしなくても主語は提示語により暗示されておるのです。




属性的提示語についてはちょっと問題があります。そもそも属性的提示語とは、平説の修用語であるものを提示したものを指して言いますが、平説の修用語といいますのは、もともと修飾語であります。補充性の連用語ではない。つまり端から被修用語に対して必須の概念ではありません。必須の概念ではないのですから、それが無くてもなんら怪しむに足らない。たとえば客体の提示であるなら、客体が提示されることで被修用語内の動詞が非帰着化することで、これは客体が提示されたものではなかろうか、と察せられるにもせよ、属性的提示語の場合はそうはいかない。そのためこれが提示された場合には、それが平説の修用語と区別が付きにくくなる。付きにくくなるのではありますが、概ね文脈から難なく平説か提示かは分かる。ちょっと例を見てみましょう。

為病不能出仕
ごく普通に病が原因で出仕することができないのであろうと意味が分かる。平説か提示かなどを知らずとも文脈から自然と読める。


以困窮不受財

これも、困窮を以っては財を受けずとすぐに分かりましょう。文脈により読める。しかしこの二つ文法的に大きく異なっておるのです。上の「為病」は平説の修用語であります。それに対して「以困窮」は提示された修用語です。

修飾性の語の提示に困難があるとすれば、もとより被修用語内に欠けた概念がない。他の提示語は実質化し修飾語になったとはいえ、本性として補充性を含むのです。

この文は「以困窮」という属性を提示して、これを判定するに成立するところの作用を以ってするということです。分かりやすく訳せば、「困窮を以っての場合はどうかといえば、(その場合を以って)財を受ける、ということはない」というのです。()で補った部分は修用語ですから、もともと必要ないのです。よって外形上この部分の修用語が提示されたのか、もともとの平説の修用語なのかが、判然としないのです。「以困窮」の三字が「不受財」に平説に懸かるのか、本来「受財」に対する修飾語であるのかは、語順を並び替えてみるとよりはっきりします。

「以困窮不受財」を並び替えて、

不以困窮受財

としますと、これはよく意義が通じる。もともと修用語としてあるべき位置に「以困窮」が置かれたためです。原文はこれを提示したのです。為に、元からの修用語か提示語かが判然としなくなるのです。次に「為病不能出仕」を同じように並び替えて、

不能為病出仕

としますと、文法上間違いではないにしましても、「病気を原因として出仕する、ということは出来ぬ」の意となって、当初の意とはまったく異なってしまう。これは原文の「為病」が「不能出仕」に対する平説の修用語であり、「出仕」に対する修用語ではないからです。


こういうのは訓読を下から上に向かってやってみるとよい。

「為病不能出仕」であるならば、「出仕する能はざること病の為にす」で、意義が通っておるなら平説であり、そうでなければ提示であります。解釈しだいということです。

「以困窮不受財」も「財を受けざること困窮を以ってす」と読んで意義が通じておると思うならそれでよいが、普通に考えるとやはりおかしい。なぜ財を受けないことを困窮がためにするのか、困窮であるからこそ財を受けるのではないか、と。そういう疑惑が生じたら提示として考えてみればよい。すなわち「困窮の場合を以ってはどうかといえば、(その場合を以って)財を受ける、ということはせぬ」と。選挙に出るのに金が要る、会社をやるのに金が要る、という場合には金を受けるが、貧乏を理由には金をもらわぬということ。

「酒吾不飲(酒は、吾飲まず)」などの「飲」を提示による非帰着化というのでありますが、上記に述べたこともこれに類することでありますから、どうにか名前を付けたいところなのですが、ちょっと難しい。提示による合主化や非帰着化といいますのは、提示によって被修用語内の動詞が必然的に主客体に対し絶対化することでありますが、属性の提示の場合にはもともと被修用語に対して補充をしておるわけではありませんから、主客体が欠けておるが如きとは区別されるからです。つまり提示の為に修飾語が不要になるのではなく、もとから不可欠のものというわけではありません。「以困窮」も「為病」もこれあるが為に文が詳しくなるというのみで、主語や客語などの補充的であるのとは大きく異なるということです。それでも合修用語化または、非被修用語化とでも名付けておくことの観念を想起し易きには及ばんでありましょうか。




直感的観念上「不以困窮受財」となるべきものが「以困窮不受財」となれば、提示。
また「以困窮不受財」が「不以困窮受財」としても、さしたる差無く通じれば、「以困窮」は提示。
提示でなければ平説ですから、下の詞に平坦に従属するのみ。これらは解釈によって判断します。




大寒為之不重裘 (平説・白虎通義三綱六紀)
與世無營 (提示・幽憤詩)

下から上に返ってみればよくわかる。皮衣を重ねないことを之(友)の為に大寒に於いてするのです。大寒のときは、友のために皮衣を重ねないのであります。「友のために」ではありません。それでは提示と解したことになります。提示であるならば、「大寒不為之重裘」としても意義に大差ないはずでありますが、これでは「友のために皮衣を重ねる、ということはしない」の意になってしまう。「與世無營」は下から読むとちょっとおかしく感ぜられる。営むことをしないことを世とともにするとなる。そこで提示と考え、「世と営むことをしない」の意とするのです。「無與世營」の「與世」が提示されたのです。「世とともにすることについてはどうかといえば、(それとともに)営む、ということをしない」というのです。




可能的被動

またネットを検索しておったら興味深い記事を見つけました。そこではセンター試験追試の問題を例に漢文法の解説を試みられておるのでありますが、それを読んで少しく発明するところがありましたので、簡単に書きとめておきます。おもに国文法についてであります。

それにしましても、下に示してありますように、なかなかに微妙な選択肢がそろっております。

「使李杜諸公復起、孰以予為可教也」の解釈を問うもので、以下の如き選択肢が与えられておる。

(1)仮に李白・杜甫やその他の詩人がもう一度現れたとしても、だれも私に教えることができないだろう。
(2)李白・杜甫やその他の詩人にもう一度詩を盛んにさせても、だれも私が教えられるとは思わないだろう。
(3)仮に李白・杜甫やその他の詩人がもう一度現れたとしても、だれにも私は教えることができないだろう。
(4)李白・杜甫やその他の詩人にもう一度詩を盛んにさせても、だれにも私は教えることができないだろう。
(5)仮に李白・杜甫やその他の詩人がもう一度現れたとしても、だれも私が教えられるとは思わないだろう。

まず(2)の選択肢を見ていただきたい。それも後半部であります。((5)も同じ)

たとえば、「私は彼に何度もだまされているから、もう彼のことが信ぜられない」と言った場合、この「彼のことが信ぜられない」とはどういう意味でありましょうか。こういうのを可能的被動というのでありますが、書き改めますと、「彼のことを信ずることが出来ない」というふうになります。「彼のことが」という主語は、「彼のことを」という客語に置き換わるのです。原文は「彼のことが(私に)信ぜられない」の如く、形式上被動でありますが、実質的には「私」の可能不能を表しておる。ゆえに、可能的被動というのです。文法学は形式の学でありますから、実質ではなく形式を重んじます。為に被動的可能ではなく、可能的被動というのです。

書き改めた方の文では、「(私は)彼のことを信ずることが出来ない」、漢訳すれば「我不彼能信」のように「我」の不可能を表しておることが明瞭となります。もう一つ例を挙げれば、盗人が「俺が捕まえられるか」と云えば、「俺を捕まえることが出来るか」の意となるなどであります。

それではここで再び(2)の選択肢を見ていただきたいのでありますが、この「私が教えられる」を今見ましたように書き改めますとこうなる、

私を教えることが出来る (漢訳すれば能教我または我可教)

*(注)「可教我」でないことに注意(こうすると「可」に対して他に主語があることになる)。(例)馬陵道陜、而旁多阻隘、可伏兵 (⇔ 孺子可教矣(お前はなかなか見込みがあるから、教えるに足るの意) と要比較)

「可、足、難、易」などはその主語と、下の内包的客語(要するに動詞)の客語が同じである場合は客語のほうが非帰着化するのです。英語と比較すればよく分かる。

「此書難讀」(此の書、読むに難し)
This book is difficult to read. (此の書、読むに難し) 「is difficult」の主語と「read」の客語が同じであるため、「read」が非帰着化しておる。

と。ここに於いて(1)の選択肢とこの文(だれも私を教えることが出来るとは思わないだろう)を比較していただきたい。(1)の選択肢は「私に」であるが、全体としてよく似た選択肢になる。この区別は相当微妙なもののような気がしますが、答えは(1)ということだそうであります。(1)の選択肢のみ「私に」と明らかな客格で、それ以外はちょっと分析を要する。ちなみに原文を直訳的に読み下しますと、「孰(たれ)か予を以って教ふるに可なりと為さんや」となります。結局の意義は反転しております。

あるいは(2)の選択肢の「私が教えられる」の「私が」は、「彼がフランス語が教えられる」「此の子が難しい本が読める(読まれる)」などの「彼が」「此の子が」に相当するもの、すなわち小主語ではなく大主語として作者は用いておるのかも知れない。その場合「私」は「教える」という原動の客体ではなく、主体になりますから、(1)の選択肢とはっきり区別することができるようになります。「俺が捕まえられるか」も盗人の言葉ではなく、取り締まる側の人間の言葉として解されることになる。すなわち、「俺が(大主語)盗人が(小主語)捕まえられるか」の意。「盗人が俺に捕まえられるか」に同じ。「俺」は「捕まえる」の主体であり、客体ではありません。(2)の選択肢をこのように解すれば、この選択肢が誤りであることははっきりします。なぜならば、「私」が原動「教える」の主体ということは、原文の「予」(第一人称)が原動「教」の客体であることと矛盾するからであります。

要しますに選択肢の中で、「私」が「教」の客体として解されておらないものは、これは誤りなのです。然るに、選択肢のうち明確に客格であることが分かるのは(1)のみで、それ以外は若干の分析を要するということです。


残りの選択肢も意義明瞭とは云えない。(3)(4)の選択肢の後半「だれにも私は教えることができないだろう」も、純粋にこの文だけを見れば、解釈は曖昧になってくる。つまり「私は」は題目であるから、「教えることができないだろう」に対してどのような関係であるか動作詞に対する格が不明瞭であります。たとえば、「私は物理学の大家であるからして、教師であろうが研究者であろうが、だれにも私は教えることができない」といえば、この「私は」は「私をば」の意となります。お前ら如きに、私が教えられるものかの意となる。

また、「嘗て教育者としてあるまじき行為をしてしまったのだから、だれにも私は教えることができない」といえば、この「私は」は「私が」の提示語であります。「私が」と「私を」とではまったく異なるわけでありますが、(3)(4)の選択肢の意味は「私が」の意であることは分かるのです。なんとなれば、この「私は」を客体と看做しますと(1)の選択肢と同じになってしまう。特に(3)は前半部も(1)と同じでありますから、大差ない選択肢が二つ存在することになってしまうのです。尚且つ、(1)の「私に」は客格としか解しようがありませんので、(3)の選択肢の「私は」を主体の提示とするのです。而して(3)の「私は」が主体の提示なら、(4)の「私は」も主体であろうことが推測できます。なにしろまったく同じ表現形式なのですから、一方は「主体」で、他方は「客体」を表すなどということは不自然でありましょう。




最後に上記に述べた紛らわしい解釈を並べ示して置きます。

(1)だれも私に教えることができないだろう。
(注)これとても「李白杜甫のごとき詩人が再び現れたとしても、(皆偉大な詩人であるから)だれをも教えることが私にできないであろう」の意でないとどうして言えるか。この意味に考えれば、「私」は再び原動「教える」の主体となる。嗚呼。



(2)(5)だれも私が教えられるとは思わないだろう。 ⇒ だれも私を教えることが出来るとは思わないだろう
(3)(4)だれにも私は教えることができないだろう。 ⇒ だれにも私をば教えることが出来ないだろう

【参考】
松下大三郎 『標準日本口語法』百六十一項(可能の被動)



戯論文法 「曰く、謂へらく、憾むらくなど(帰着性従属的用法)」

『改撰 標準日本文法』(七百四十項)に曰く、

何詞に拘らず連用格が実質化して一度無格となり其れが再び連体格となったものは勿論連体格になるが、そういふ連体格は必ず特殊の被連体語を要する。

「故郷よりの便り」
「東京への土産」
「朋友からの手紙」
「来るなとの心」

こういふ様な連体語は実質化しないならば連用格であるから、其の下へそれ相当の動詞が来るべきである。それだから連体格となった場合には、最初来るべかりし動詞の意義を持った名詞を被連体語としなければならない。「故郷より」の下には「来る」といふ動詞の有るべかりしものであるから、「故郷よりの」となると、下に「便り」といふ様な名詞が来る。「便り」といふ名詞は「来る」といふ動作の意味を持っている。その他「土産」は「遣る」の意を含み、「手紙」は「来る」「云う」、「心」は「思ふ」皆そういふ動詞の意がある。

「故郷より」は「来る」といふ動作の客体の概念であるから、之を実質化して一無格名詞とすれば相対名詞である。故に「来る」といふ意を含む概念と統合して始めて連詞的絶対名詞となるのである。「故郷より(来る)の便り」といふべき省略だなど説くのは俗説である。
もともと其れ相当の帰着語を予定しておるところの客語でありますから、いくら実質化、すなわち体言化すと雖も直様絶対化し得ない。相対性は維持されたままであります。例えば「本」の如き名詞ならば、これだけで絶対態でありますから「本の出版」「本の執筆」「本の土産」「本の位置」「本の枕」など必ずしも特異な意味を持った名詞を被連体語として要するわけではありません。しかし、上記のような連体語は実質化しても「本」の如く絶対態にあるわけではないというのです。由って被連体語を択ぶのです。自らの絶対化に資する被連体語でなければならんのです。

【参考】
『改撰 標準日本文法』「古文の第六活段」百十九項、「動詞性名詞(3)」三百十六項、「完備不完備の相」四百六十項、「絶対動詞と相対動詞」二百五十九項、「詞の実質化」(この”実質化”は形式化に対する意味で体言化とは異なる)六百九十六項etc...



『標準漢文法』(七百三十七項、七百四十一項)に「帰着性従属」なるものがありまして、例を挙げれば以下のようなものです。

君饋之、則受之、不可常繼乎 (孟子萬章下)
今晉與荊雖強、而齊近、其不救 (韓非子說林上)
半死白頭翁 (唐詩選劉廷芝
世皆孟嘗君能得士 (讀孟嘗君傳)

赤字は既に帰着語ではなく、修用語の一種になっております。下線部は客語ではなく被修用語なのです。先に連体関係に於いて申したことが、ここでは連用関係であるという違いこそあれ、ほぼそのまま当てはまるものと思います。「称す」は帰着語でも、「称すらく」と言えば帰着性従属的用法となり実質化する。実質化し内包的主体となると雖も、もともと其れ相当の客語、すなわち此の場合は生産格的客語を要するわけでありますから、直様絶対化はし得ない。通俗に申せば相対名詞であります。「称すらく」と言えば、何と称するのであろうかと、どうしても其の産果物を欲す。何となれば生産性と産果物は二つで一つのものであり相対的関係にあるからであります。どちらか一方が欠ければ完全とは成り得ないのです。よって被修用語は修用語の相対性を補い、絶対化に資するところの性質を持ったものでなければならない。すなわち客体的性質を帯びた被修用語なのです。赤字を「帰着性従属語」と名づけるならば、下線部は「客体性統率語」とでもなりましょう。客体関係ではないにせよ、客体概念を無視しえないのです。

七百四十一項では「曰」を例として帰着性従属の用法を説いておりますが、これは要するに帰着性が生産性なる場合のことに特化したまでのことで、一般的には上記の通りであろうと思う。帰着性従属語が「曰」などの生産性の動詞の場合には、客体性統率語は「模型動詞」であるというのみです。これは六百十七項の「模型動詞は専ら生産性動詞に対して客語を成す」という記述や、百六十二項の「(生産格は)連用格の一種であって生産性動詞に対して客語になる。『と』無しに使って意味が終止すれば終止格である」という記述と矛盾しておらない。ただ此の模型動詞は修用語に含まれたる生産性を補充する役割を負ったところの被修用語であるというのみです。客語ではありませんが、模型動詞としてはやはり終止しておる。





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