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辞書をすら用いず漢文を読む

今までの知識の確認をしておきましょう。以下の如き文は、造句法を以って句を分析すれば、ほとんど何等の前提知識も無しに大凡の意味を取れるべきものです。「掊克」や「讓」などは、ちょっと難しく感ぜられるかも知れませんが、いづれの字と対になっておるのかを発見できれば、辞書を引かずともだいたいの意味は分かるはずです。

春省耕而補不足秋省斂而助不給入其疆土地辟田野治養老尊賢俊傑在位則有慶慶以地入其疆土地荒蕪遺老失賢掊克在位則有讓 (孟子・告子下)


【参考】





「辟」の意味が分からなくても、「治」の意味から同類の概念であることは察しが附きますし、「蕪」の意味が分からなくても「富貴」などの如く上下似た意味の語が連なっておるのであろうと推測できるはずです。

「?」の部分はまさしく造句法の本領発揮たるべき箇所であります。一方が肯定的であるところから、他方の意味も大体察しが付けられましょう。すなわち、俊傑(才の優れたもの)が位にあるときは慶であるが、『掊克』が位にあるときは『讓』である、というのです。

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文法問題

『標準漢文法』の「客語倒置不能の救済」という章を読んでおって、ちょっと思いつくものがありましたのでそれを今回の課題とします。論語泰伯篇に以下の如き文があります。

危邦不入、亂邦不居

この文はもと「不入危邦、不居亂邦」とある客体概念を提示したもの、すなわち客語が倒置不能であるための救済として提示語にしたものでありますが、「危邦亂邦」とすることができるかどうか、これを考えて見ましょう。


結論から言えば、できるのでありますが、それは一体なぜか。

参考例文:

唯許國之 (春秋左傳隱公)
斯人之徒而誰與 (論語微子)


(注意)『不患人之』などと構造が似ておりますが、これは松下文法に所謂『客体関係の特殊的配置』でありまして、「己」は「知」に対して客語です。上例の太字部は代名詞でなく本名詞であることに注意してください。


梁啟超 『論進步(進歩を論ず)』

それではここら辺で今までの知識を確認しておきましょう。今回は前回の考試と異なり句読無しの白文です。紙と鉛筆を用意して、以下の文を先ず写しましょう。写すときには句と句とのつながりを考えながらしましょう。たとえば、出だしの「吾昔讀」の「吾」は果たして主語か、提示的修用語か、「讀」はこれで切れるかどうか、これで切れるなら果たして何を読んだのか、そう考えて次を見れば読んだ書物が示されておる、更に其の後の「好之」はここで切れるのか、下の詞に従属するのかどうか、従属するならば如何なる格で以って従属するのか、連体格か連用格か、連用格ならば主格客格か、方法格か、機会格かなどと考えながら読んでいくのです。無論、このような読み方は勉強のためにするのでありまして、慣れてしまえば無意識に分かるものです。

文法的に殊更に変わったところはありませんが、どうしても読めない場合には下の解釈を読んで下さい。漢文は意味が分かってのち読めるものです。すなわち解釈が出来れば読めるのです。解釈が出来なければ、詞の格一つとっても決定できないのです。

吾昔讀黃公度日本國志好之以為据此可以盡知東瀛新國之情狀矣入都見日使矢野龍谿偶論及之龍谿曰是無异据明史以言今日中國之時局也余怫然叩其說龍谿曰黃書成于明治十四年我國自維新以來每十年間之進步雖前此百年不如也然則二十年前之書非明史之類而何吾當時猶疑其言東游以來證以所見良信斯密亞丹原富稱元代時有意大利人瑪可波羅游支那歸而著書述其國情以較今人游記殆無少异吾以為豈惟瑪氏之作即史記漢書二千年舊藉其所記載與今日相去能几何哉夫同在東亞之地同為黃族之民而何以一進一不進霄壤若此


【語釈】「日本國志」は黃公度(清朝の政治家)による日本近代の歴史書。「東瀛(とうえい)新國」は日本のこと。「矢野龍谿」は明治期の官吏。「异」は「異」に同じ。「斯密亞丹『原富』」はアダム・スミスの『国富論』。「意大利人瑪可波羅」はイタリア人のマルコポーロ。「几」は「幾(ちかし)」に同じ。「霄壤(しょうじょう)」は天地に同じ。雲泥の差あることの喩え。

【解釈】
私は昔黃遵憲の『日本國志』を好んで読んでいて、自ら思うにこれで新しくなった日本の国情を知悉することが出来ると。しかし、日本の公使矢野龍谿と議論することたまたま是に及んだときに、彼が言うには、こんなもので我が国を知ろうとするのは明史を以って今の中国を知ろうとするようなものだと。私はむっとして其のわけを尋ねると彼はこう言う。曰く、日本國志は明治十四年に出来上がったものだが、我が国の維新以来の進歩は十年で以ってこの百年を上回るほどのものである、そうであるならば二十年も前に書かれたものは、二百年以上も前のものに相当する。これはまさしく明史でもって今の中国を知ろうとする者にあらずして何であろうか。私は当時猶其の言を疑っていたが、いろいろと見聞するところを以って調べてみると彼の言うとおりであることが分かった。アダム・スミスの「国富論」にマルコポーロの支那見聞記を評して今の人が書いた記録と比べてみるに、殆ど異なるところが無いと。思うにこれはマルコポーロの記録との比較において然るのみならず、二千年前に書かれた史記漢書の類と今を比較してみてもやはり同じである。均しく東亜の地に在り、均しく蒙古民族でありながら、どうして一方は進み、他方は進まず、これほどの差になってしまったのであろうか。



白文読解(句読あり)

今までやってきた知識の確認をしておきましょう。以下すべて梁啟超の『變法通議』よりの引用です。特に赤字については今まで何度もやった変態動詞です。

(一)彼儀禮者、亦六經之一、先聖之所雅言、問今之學子、曾卒業者幾何人也、同一禮記而喪服諸篇、誦者幾絕、豈不應試之無取乎此哉

(二)大腦主悟性者也、小腦主記性者也、小腦一成而難變、大腦屢浚而愈深、故教童子者、導之悟性甚易、強之記性甚難

(三)悟贏而記絀者、其所記恒足以佐其所悟之用(吾之所謂善悟者、指此非盡棄記性也、然其所記者實多從求悟得來耳、不可誤會)、記贏而悟絀者、蓄積雖多、皆為棄材

(四)嚐見西人幼學之書、分功課為一百分、而由家中教授者、居七十二分、由同學熏習者居九分、由師長傳授者、不過十九分耳、兒童幼時、母親父、日用飲食、歌唱嬉戲、隨機指點、因勢利導、何在非學、何事非教、孟母遷室、教子俎豆、其前事矣、故美國嬰兒學塾、近年教習、皆改用婦人、以其閑靜細密、且能與兒童親也、中國婦學不講、為人母者半不識字、安能教人

(一)も(二)も赤字の「以」の用法は同じです。すなわち前置詞性形式動詞です。ただ前者は形式的意義を寄生により実質化し、後者は単純なる実質語(不定法)によって補充せられるという差あるのみです。

(三)は悟性に優れるも記性(記憶力)に劣るものと、記性に優れるも悟性に劣るものとの対比。

(四)の赤字の「於」も前置詞性動詞です。「親」は比較態の動詞。子弟の教育に影響を与えるものは何か、友人、先生などは百分の二十八に過ぎず、残り七十二分は家庭教育に由る、家庭の中でも勢い母親による影響が大きい、よって米国では婦人教育を奨励す、翻って中国の婦人は字を知らぬものが半数、どうして人に教えられようか、の意。


*赤字は全て文法的に同じ用法にあります。

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