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復文について

ちょっとネットを検索しておりましたところ、こういう記述を見つけました。まだ学生のようでありますが、所謂「復文」、すなわち一旦書き下しにしたものを再び元の漢文に戻すという作業でありますが、その復文を試みること以下の如きであります。

元となる書き下し文は『淮南子』の一節で、「学ぶに暇あらずと謂う者は、暇ありと雖も亦学ぶ能はず」というものであります。よろしかったら皆さんもこれを実際に鉛筆を取り紙に復文してみてください。ちなみに正解の文字数は十二字です。

其の学生はこれを以下のように復文した。

謂学不有暇者、雖有暇亦不能学

原漢文はこうであります。

謂學不暇者、雖暇亦不能學(矣)

学生の復文はほとんど正解であります。「有暇」を「暇」に改めればそれでよい。しかし、問題はそんなことではありません。問題は、「暇」という動詞は松下文法に所謂「帰着形式動詞(第三種)」でして、客語を取る動詞なのです。たとえば以下の如きであります。

聖人之憂民如此、而乎 (孟子滕文公上)
文王日昃 (論衡書解)

耕すに暇あらんや」「食らふに暇あらず」であります。「」+「客語」の語順となるべきものであります。然るに「
学ぶに暇あらず」を復文して「不暇学」とならずに、「学不暇」となるのはなぜかと申せば、これは客体の提示であります。

吾子孫其覆亡之不暇 (春秋左傳隱公)

これと同じです。「吾が子孫其
れ覆亡だもこれ暇あらず」と訓みます。覆亡」は客格(連用格)の提示されたもの。「之」は客体概念の再示。寄生形式名詞。よって厳密に言えば上記の書き下し文から原漢文に復することは難しい。なんとなれば、書き下し文には客体の提示が表れておらないからであります。仮に「学ぶもぞ暇あらざらんと謂ふ者」とでもあれば「学」の提示が表れますから客体の提示たることを推して知ることもできますが、そうでなければ必ずしも提示するには及ばないのです。すなわち「謂不者(学ぶに暇あらずと謂ふ者)」とした場合も亦可であります。書き下し文では「学」は「暇」に対して客語でありますから、むしろこれが標準的な復文であります。

また「学謂不暇者」とすれば、「学」は題目になります。





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漢文句形集の注意点

所謂受験用の句形、公式集の類は便利なもので、はじめはそのようなものを使って数多くの短文に触れ漢文に慣れるべきでありますが、注意しなくてはならんのは、漢文は必ずしも句形に則って書かれておるわけではありませんから、たとえば「不~不~」などの形をすぐに「~せずんば~せず」などと判断してはならんということです。

手元にある句形集には「不~不~」の形を「~せずんば(せざれば)~せず」と説き、例として

丈夫入虎穴得虎子 (後漢書)
を挙げてあります。「丈夫虎穴に入らずんば、虎子を得」と訓みます。これは確かに句形通りの用法でありますから、なにも問題はありません。然るに以下のようなものはどうでありましょう。

二十四年、春、王正月、秦伯納之、書、告入也 (春秋左傳僖公)

これを「書せずんば、入るを告げず」と読んでも文法上間違いではないとは言え、解釈上それではよろしくない。そもそもこの「書」はここでは動詞ではなく、動詞性の名詞であります。日本語では「書す」(動詞)や「書すこと」(動詞性名詞)などと助辞によって詞の文法的性能を細かく表せますが、漢文ではそうではないのですから仕方がない。読者の側がある程度文法的性能を斟酌しながら読むしかない。この「不書」は「不的に書す」ではなく、「不的に書す+コト」の意でありまして、要するに「コト」です。名詞です。(経文に)書いておらないのは、入ることを告げないのである、というのです。一般的には「書せざるは、入るを告げざればなり」と読みます。






漢文分析の法(斎藤拙堂)

『拙堂文話』に曰く、

晰文之法、先分章段、次看照應、而求旨意所在、則莫不通、如此而猶有艱渋不通者、非誤譌則錯脱、闕疑可(一)也

凡晰文理、不止為作文之資、又為讀書良法、世人讀書、多不知此法、逐字逐句而解之、故其於古書(二)、往往不通、若得此法、雖字句或不通、大意莫不了然、故讀書者以晰文理為要

「文を晰(あきらか)にするの法は、先づ章段を分かち、次に照応を看て、而して旨意の在るところを求むれば、通ぜざるもの莫し、此くの如くして猶ほ艱渋にして通ぜざること有るは、誤譌に非ずんば則ち錯脱す、闕疑(疑わしきをひとまず置いてく)して可なり

凡そ文理を晰かにするは、止(た)だ文を作るの資と為すのみならず、又読書の良法と為す、世人書を読むも、多く此の法を知らず、逐字逐句して之を解す、故に其の古書に於けるや、往々にして通ぜず、若(も)し此の法を得ば、字句或は通ぜずと雖も、大意はり了然たらざるもの莫し、故に書を読む者は文理を晰かにするを以って要と為す」と訓みます。

これを非常に噛み砕いて言えば塚本哲三氏の以下の言に通じるものがあろうかと思う。

塚本氏云う、

由来漢文は概して表現が簡潔で而も典型的である。表現が簡潔だから内なる思想を本当に徹底的に理解することはなかなか困難である。しかしながら表現が典型的であるから、その表現慣習に習熟すれば、大抵の漢文は或る程度の正しさを以って訓読されうるものである。そして其の訓読に基づいて一応の口語化即ち直解をやれば、どうやら一通りは出来たということになるのである。つまり本当に徹底的に内なる思想が了解されなくても、構文的の考察を正しく下すことができれば、大抵の漢文は一応解決がつくといふことである。

兎も角も間違ってはいないといふ程度の解決を下し得て、それを基調として歩一歩向上の歩みを進める、といふやうにあるべきものだと思ふ。 (『更訂 漢文解釈法』五項)




(一)「可」は『標準漢文法』の被修飾形式動詞参照。
(二)前置詞性動詞性名詞(複雑変態詞)参照。


訓読と棒読み

漢文は解釈ありて後、読むことが出来るものと云うもまた可であります。これは漢文を棒読み(音読)する支那人と雖も同じであります。河北景楨は『助辞鵠』にこう云う、

夫廻旋の法、もと其の文廻旋して義をなすゆえ廻旋して読む、漢人も直読すれど義は廻旋して心得るなり

と。これを河北景楨がどういう意味で言ったのかよく分かりませんが、支那人もただ上から下に読んだだけで意義を取れるわけではないということでありましょう。なにしろ何等の句読のない漢文は句読の切り方で意義が変わる、上の語を下に属して読むか、上の語はどこまでかかるか、ここで終止させるか、従属させるか、などの問題は思惟を費やして始めて解決するものであります。これは一般的な問題ですから人種を問わないのです。このようなことは我が国文にても起こりうることであります。たとえば「今日就任したばかりの大臣が辞職した」といえば、(最近)就任したばかりの大臣が今日辞めたのか、今日就任して即日辞めたのか、どちらかは直読しただけでは分からない。どちらの解釈が正しいかは最早文法の与るところではないのです。ただどちらの解釈も文法的には可なりというのみであります。これは事実を確認して後初めて能く読むことが出来るのです。事実が分からなければ国文でありながらも音読することさえ正確な調子にてはできないではありませんか。況や格の不明瞭な漢文に於いてをやであります。

搏牛之虻不可以破蟣蝨 (史記・項羽本纪 )

「牛の虻(ぼう)を搏(う)つも、以って蟣蝨(きしつ)を破るべからず」と訓みます。「虻」はあぶ、「蟣蝨」はしらみのことで、虻は大きく外にあるため手で打つこともできますが、虱は小さく内にあるため殺すことが出来ないの意。外敵に勝つも内敵に勝ち難きことを言う言葉であります。

「搏牛之虻」を読み下して、「牛の虻を搏つ」(*)と言うわけでありますから、「搏」という動作には主体が無ければならない。即ち上記の訓ですと、「牛」「虻」「虱」以外の登場人物があって、それが牛の背の虻を打つことを言っておるのです。「虻」は主ではなく、客であります。然るに、註のひとつに曰く、

虻之搏牛、本不拟破其上之虮虱、以言志在大不在小也

また『日知錄』に曰く、

虻之大者能搏牛而不能破虱、喻距鹿城小而、秦不能卒破

上二つの句は、「牛」「虻」「虱」以外の或る主体の、牛の背の虻を打つことを言うに非ずして、而も虻なる主体の牛を打つことを言うものであります。虻(主体)が牛を打つことを言っておるのです。この解釈に従えば、「搏牛之虻」は訓み下して「牛を搏つの虻」とすべきであります。斯くすれば「虻」が主となります。

「搏牛之虻」はたかが四字の句でありますが、棒読みする支那人と雖も、文法的解釈は分かれるのです。この問題は漢文を「牛の虻を搏つ」「牛を搏つの虻」などと訓読するから生じるのではなく、漢文そのものに自ずから含まれておる問題なのです。詞と詞との関係の不明瞭が原因なのです。文法的には「搏」を帰着語とし、「牛之虻」を客語として解釈することも出来ますし、松下文法に所謂連主的連体関係、たとえば「飛鳥(飛ぶ鳥)」といえば「飛」は自らの主体である「鳥」に連体語として従属しておる、よって主体に連なるとの意味にて連主というのでありますが、亦其の類として解釈することも、いづれも文法的に可能なのです。どちらの解釈が正しいかは最早文法の与るところではないのです。ただどちらの解釈も文法的には可なりというのみであります。



(*)「搏牛之虻(牛の虻を搏つ)」と「牛之搏虻(牛の虻を搏つ)」との違いに注意。読み下せば差が無いようでありますが、文法的に異なります。前者は「搏」が帰着語で、「牛之虻」が客語。後者は「牛之」が主体的連体語で、「搏虻」が被連体語。前者は「(或る主体が)牛の(背にいる)虻を打つ」の意、後者は「牛なる主体が虻を打つこと」の意。


2014.9.22追記
魚返善雄氏の『漢文の学び方』(六十項)に

中国人が古文を読むときにも一種の訓読をやっているのだ!

とあり。

造句法の練習

もうひとつ例を見ておきましょう。以下の文もまた何か殊更に新知識を要するものではなく、造句法より考え対を発見せんと心掛ければ、おおよその意味くらいは取れるものなのです。またそれが出来るようになってからでないと、文法の勉強もはかどらないものです。

施恩者內不見己外不見人則斗粟可當萬鍾之惠利物者計己之施責人之報雖百鎰難成一文之功 (菜根譚)

まず文をよく眺め、対になっておるものを見つけるのです。すなわち、「内」と「外」とが対になっておるが、これをよく眺めれば、「內不見己」と「外不見人」とがきれいに対になっておる事に気が付く。さらにその後を見ますと、「利物者」という句が目に入ってくる。是れ、出だしの「施恩者」とよく対になっておる。要するにこの文は大きく分けて「施恩者內不見己外不見人則斗粟可當萬鍾之惠」(二十字)と「利物者計己之施責人之報雖百鎰難成一文之功」(二十字)とから成り立っておるのだなと当たりをつけるのです。字数を数えるとどちらも二十字であります。そこでこれを横に並べて書いてみましょう。きっと新たな発見があるはずです。



「斗粟」「萬鍾」「百鎰」などと言った漢文独特の、とっつきにくい表現も上図のように分析できればなんということはない。要するに莫大の量と極小の量とを表さんために対になっておるに過ぎない。もし「斗粟」が分からなくても、「萬鍾」の「萬」が大なるものであることは分かる、さらにこれが「一文」と対になっており、これが「百鎰」と対になっておるということから、「一文」の「百鎰」に対する関係と、「萬鍾」の「斗粟」に対する関係が「貧富⇔貴賎」などと同じではないかと見当をつけるのです。つまり「一文」が小で「百鎰」が大ならば、「萬鍾」が大で「斗粟」は小ではないかと。辞書を引くまでもない。

「斗粟」を仮にXとします。このXは構文から推測可能なのです。


見返りを求めることなく恩を施すものは、小量の施しといえども、多大の恵みとしての効果を持ち、一方、いくらやったからいくらの見返りがあるだろうなどと計算しながら恩を施すものは、莫大の施しをするといえども、小量の効果をすら期し難い、そんな意味であろうと読めるわけであります。

「利物者」などの三字は、簡単といえどもこれだけを見ておったのでは埒があかない。意味がわかりそうでわからない。ただ「施恩者云々」の句と対になっておることを見抜き始めて、意味が定まるのです。

上記のような造句法を特に対偶法といいますが、漢文にしてこの句法に由らぬものは稀でありまして、凡そ漢文といえばこの句法によってその大部分が構成されておるといってよい。よって白文読解の研究はこの句法より始まると言っても良いのです。語法や字法、さらには文法の研究はその次に位するものであります。この点は西洋文を学ぶときとは大いに異なるところであります。




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