FC2ブログ

漢文速成 三十三日間講座 (五)

前回の続きです。前回は英文法風に言えば、「S+V」の構文を学びました。ただ第二類の構文、すなわち動詞が「有、無」の場合には主語が動詞の下に来るというものでありました。私には両親が居りますと言いたければ、「我父母」とする類です。今回は新たに第三類と第四類を学びます。

「文の研究」


「単文の構造」(其の二)
単文の分類は全部で六つです。今日はその内の第三類と第四類とを学びます。
(赤字は松下文法との関連を補足したもの)

第三類 主語+説語(自動詞)+止語

【ア】止語の前に前置詞の無いもの
「蛇穴に蟠(わだかま)る」と訓みます。(註)「蛇渡河(蛇河を渡る)」の「渡」は他動詞(使用)。「出門」の「出」などに同じ。「河を使用して渡る」のです。「門を使用して出る」のです。「出自門(門より出づ、出づるに門に自りてす)」の「出」が非帰着性であるのに異なるのです。



【イ】止語の前に前置詞の有るもの

(註)嘗ての漢文先生は「於」や「于」を区別したものです。たとえば、山田方谷門下山岸輯光先生の漢文参考書を見ますと、「遂餓死首陽山(遂に首陽山に餓死す)」の「於」は、上の「餓死」の字重く主とし、下の字軽くして客とするとあります。また論語の「吾十有五而志学(吾十有五にして学に志す)」の「于」は、上の「志」の字軽く客とし、却って「学」の字重くこれを主眼として立言したる文であるとあります。ただ文法上から言えばいずれも前置詞性の形式動詞です。以前副島伯の漢文を載せたときに「期以必滅洋夷興清朝」の「期」と「以」との連詞関係を説明するに以下の図を用いました。
連詞関係
これを見れば明らかな通り、「期」と前置詞としての「以」とは直接の統合関係はありません。「期」は「以」が臨時に帯びた動詞としての形式的意義「為」に従属しておるのです。「蟠」と「於」との関係も文法上これに同じことは、下の図の如くであります。

連詞関係
普通は「泥に蟠る」と訓まれますが、文法的直訳をすれば、「蟠り(す)、泥に於いてす」となります。これは日本語としてあまりに不自然でありますから、「蟠るに泥に於いてす」とでも読めばよい。「蟠」は「す」に対して実質的意義を補充しておるのです(四百四十九項参照)。
【練習】「義に死ぬ」「飢えに泣く」を漢文にしてみましょう。

【答え】「死義」「泣飢」(「死於義」「泣於飢」とするも可。)





第三類 主語+説語(他動詞)+客語

【ア】客語が一つの場合

(註)「呑蛙」は「蛙呑む」と「ヲ格」で、「蟠穴」は「穴蟠る」と「ニ格」でありますが、漢文自体にはそれを区別する記号がないのです。記号が無いだけで、区別が無いわけではありません。形式副体詞や前置詞性動詞などの力を借りて、名詞の格を表すこともできるのです。

【イ】第二客語がある場合

「汀」は水際。

(註)ここにては事物的客語と場所的客語とを明確に区別しておらないようであります。すなわち、「お金を河に落とす」の「河」と、「お金を旅先に(で)失くす」の「旅先」との区別をしてないようです。前者の場合は、「於、于、乎」は省かれることが多いですが、後者の場合は必要であります。日本語で「~で」と云う場合は場所的客語でありますから、「於、于、乎」が要るのです。上文を松下文法に則って分解すれば以下のようになります。


普通は、「蛙を汀に呑む」と訓みましょうが、文法的には「呑蛙するに汀に于いてす」と読めばよいことは、先の「蟠於泥」の場合と同じです。「蟠」が単詞的動詞であるのに対し、「呑蛙」が連詞的動詞であるという差があるのみです。



これまで四つの単文の種類を学んできました。この四つの文型の知識だけで以下のような漢文が読めるようになっております。是非試してみてください。


【第一類】 主語(名詞)+説語(動詞、形容詞)
【第二類】 説語(有、無など)+主語
【第三類】 (一)主語+説語(自動詞)+止語、(二)主語+説語(自動詞)+前置詞+止語
【第四類】 (一)主語+説語(他動詞)+客語、(二)主語+説語(他動詞)+客語+前置詞+逮語


練習問題

(一)鷹山公好學  (第四類の一)  

*「鷹山公(ようざんこう)」は米沢の藩主上杉治憲(はるのり)のこと。

(二)其師細井平洲嘗來米澤  (第三類の一)

*「細井平洲」は鷹山公の師匠。

(三)竹中重治一日集僚佐、談軍事 (第四類の一)

*「竹中重治」は豊臣秀吉の臣で、兵法に通ず。「一日(いちじつ)」はある日。「僚佐」は自分の補佐役。

(四)其子左京尚少在座  (第三類の一)

*「尚少」は「なおわかし」と読み、まだ少年なりとの意。

(五)談未畢而起  (第一類)

*「畢」はおわる。

(六)清正有所愛胡孫  (第二類)

*「清正」は加藤清正。「胡孫」は猿の異称。「所愛胡孫(愛するところの胡孫)」全体で名詞。

(七)有君主、有民主、國體各異、大率出於上下爭奪、強弱抑制之餘  (第二類、第一類、第三類(二))

(八)立身行道、揚名於後世  (第四類の一、第四類の二)


スポンサーサイト



漢文速成 三十三日間講座 (四)

前回までの三回で「語の研究」を終えましたから、ここからは「文の研究」に入ります。文の研究を分かちて二種と為しまして、一つを「単文の研究」、もう一つを「連文の研究」と云います。まず今回扱いますのは単文の研究であります。「連文の研究」は第二十七回目以降となります。

新楽先生曰く、

讀者は以上三日間を以って学び得たる単語と熟語とを組み合わすれば、左の六類十六種の単文を作ることを得べし、而して漢文に於ける根本的の構造は、此の六類十六種に出でざるものなれば、之を暗記して如何なる漢文を読むに当たりても自由自在に之を応用し得ざるべからず



「文の研究」

「単文の構造」(其の一)
今日の講座では六類のうちの二つを勉強します。
(赤字は松下文法との関連を補足したもの。)


単文とは・・・一つの主語と一つ(或はそれ以上)の説語とより成るものです。

第一類 主語+説語

【ア】主語が名詞で、説語が動詞のもの


「蛇が蟠(わだかま)る」と訓みます。(註)これ主体関係の連詞であります。日本語であろうと漢文であろうと、主語が先に来て其の後に叙述語がくることは同じです。「彼が本を読む」のようなものは、主語の「彼が」のあとに「本を」が来ておるから直ちに叙述語が来るとは言えないだろう、と思う方もおられるかもしれませんが、松下文法に則って言えば、「彼が」が主語で、「本を読む」全体が叙述語となるのです。「書を読む」を一つの文の成分と考え難ければ、「読書す」とでも置き換えればよいのです。また松下文法に於いて主語となりうるものは、名詞、副詞。叙述語となるものは動詞と叙述態名詞です。

【イ】主語が名詞で、説語が形容詞のもの



「蛇が長し」と訓みます。(註)これも主体関係の連詞です。


第二類 説語+主語

【ア】説語が「有」のもの
【イ】説語が「無」のもの


(註)決して主語が叙述語の下にあるのではありません。「蛇」は主語ではなく、客語です。ただ意思的他動ではなく、自然的他動というまでです。「有」も「無」も形式動詞でありますが、本動詞でもこの用法はあります。たとえば、「中天明月、令嚴夜寂寥」 (杜甫後出塞)の「懸」などがそうです。「明月を懸ける」のではなく、「明月を懸く」のです。虚主的動作です。日本語でも「庭に草を生ず」の「生ず」などがそれです。松本洪先生の『漢文を読む人のために』(百五十一項)に、「楚軍敗(楚軍敗る)」「敗楚軍(楚軍を敗る)」、「天寿終(天寿終る)」「終天寿(天寿を終る)」、「草生(草生ず)」「生草(草を生ず)」、などの例を挙げてそれぞれ前者が自動詞、後者が他動詞であり、この自他を誤ると意味が反対になるとおっしゃっておられるのでありますが、松下文法にて申せば、これらはいずれも同義自他動でありまして、「草を生ず」は「草が生ず」に同意義であります。ただ意思的か、自然的かの相違があるというのみです。

使趙不將括即已、若必將之、趙軍者必括也 (史記廉頗藺相如列傳)

少々論点がずれますが、上記の「破」を「やぶる」と訓むのならばちょっとそれは違うのです。「破」はもと自動詞でありますが、それが他動性を帯びて客語を取るようになったわけです。然らば、如何なる意味の他動性かと言えば、使動的意義を帯びたところの他動性であります。すなわち「趙軍をやぶる」ではなく、「趙軍を(して)破らしむ(使趙軍破)」の意であります。(楊伯峻 『中国文語文法』九十四項)

乃激張儀、之于秦 (史記蘇秦列傳)

この「怒」「入」も同様であります。「張儀を怒る」「これを入れる」ではなく、「張儀を怒らしむ」「これを入らしむ」です。「張儀」も「之」も原動の客語ではなく、使動性に対する客語です。





漢文速成 三十三日間講座 (三)

今回でいよいよ「語の研究」が終わります。これが終われば皆さんはあらゆる漢文の語を分析、解釈できるようになるわけです。



【語の研究】


「熟語の研究」(前回の内容


第三類 形容詞


(赤字部分は松下文法との関連を補足したもの。)

【ア】同字を重ねたる者。所謂畳字。「たり」の仮名を附す。 「彬彬」の如し。(註)象形動詞です。「たり」を添えて読むと云いますのは、独立終止する場合のことで、他詞に従属する立場にあるときは、「として」を添えて読みます。もちろん「たり」に「て」をつけて下の詞に従属させてもよいのでありますが、不自然なので「として」を附けるのです。漢文では外見上何等の変化無く、それらの運用を行うのです。

【イ】同義の字を連ねたる者。「なり」の仮名を附す。「昭明」の如し。(註)これは何の変哲もない記号動詞。他詞に従属するときは、「に」「にして」などを附して読みます。

【ウ】数詞。「三百」の如し。「あり」の仮名を附す。(註)このような単なる数を基数と云います。数詞は一般に名詞、副体詞、副詞となりえます。「朝三而暮四」は「朝三にして暮れ四にせん」などのように、一致性を帯びた動詞性再動詞(変態動詞)に読むことが多いです。然りといえども、叙述態名詞として解するもまた不可とはしません。すなわち、「朝は三にして暮れは四なり」と。

【エ】数詞に異称を添えて数を謂うことあり。車には「乗」の字を添えて「車百乗」と云うが如し。(註)基数に「個」「乗」「本」「管」などを附して出来たものを、名数詞と云います。名数詞は概ね名詞なるも、副体詞になることもあります。たとえば「一本書」など。

【オ】不定の数を表すもの。たとえば、「幾日」「數月」の如し。(註)「幾」は副体詞。「幾日」「数月」は連詞的名詞。

【カ】多数を表す数詞。「多士」「衆星」の如し。

(註)上記いずれも「第三類 形容詞」としての分類でありますが、本性として動詞(形容動詞含む)であるのは【ア】【イ】だけです。それ以外は名詞で、判定性を認めた場合のみ所謂形容詞になるに過ぎず。是れ、詞の運用に過ぎないものであります。「衆星」などは結局「星」であり、名詞です。



第四類 動詞

【ア】意義相反する動詞を連ねたる者。「す」の仮名を附す。たとえば「往来」の如し。
【イ】同義の動詞を連ねたる者。たとえば、「號泣」の如し。

(註)【ア】【イ】いずれも連辞の単詞として可。

【ウ】副詞と連ねたるもの。熟語の動詞は多く音読すべきものなるも、この場合は必ず訓読します。たとえば、「相為」(あいなす)の如し。(註)修用関係の連詞。「相」は修飾形式副詞。動詞の相として「相互態」を表します(三百六十二項)。



第五類 副詞

【ア】同字を重ねたる者。「として」の仮名を附す。たとえば、「孜孜」の如し。
【イ】同義の字を重ねたる者。たとえば、「髣髴」の如し。
【ウ】「然」の字と連なるもの。たとえば、「沛然」の如し。
【エ】「如」の字と連なり、「たり」の仮名を附すもの。たとえば、「
豁如」の如し。
【オ】「
爾」の字と連なり、「たる」の仮名を附す。「卓爾」の如し。

(註)すべて象形動詞です。第三類形容詞の【ア】も再確認してください。叙述性(判定性)がありますので、主語も取れますし文を結ぶ力も持ちます。副詞のように見えるのは動詞の連用格的用法に過ぎません。

沛然德教溢乎四海 (孟子離婁章句上)
能於靜、則於動沛然矣 (黃宗羲明儒學案)
勢沛然矣 (王闓運湘軍誌)
布愕然 (史記黥布列傳)

沛然德教」は「沛然たる德教(動詞の連体格的用法)」もしくは「沛然而德教溢(動詞の連用格的用法)」の意とも取れますが、いずれにしましても動詞たる所以を失ってはおらないのです。



「たり」は「とあり」の約音。

明治昭和期の漢学者、松本洪先生の『漢文を讀む人のために』(百八項)にこうあります、ちょっと長いが参考になりますので引用してみましょう、

(「副詞」が動詞の上に直接冠せられて、其の間に何物も挟まないことを述べて以下に続く)

○始舍之、圉圉焉、少則洋洋焉、攸然而逝 (孟子萬章上)

といふ文がある。或る人が「悠然」は副詞だが、其の下に「而」があってよいかと質問した。此の文は、鄭の子産といふ賢大夫のところに、生きた魚を贈った人があった。子産は魚が生きているから、庭番に池に放てと命じた。庭番は狡い奴で、密かに煮て食ってしまって、子産には、

「始め魚を池に放ったら、何か苦しさうにしていましたが、暫くすると、良い気持ちになった様に、伸び伸びしていました。其のうちに悠然として遠くに泳いで往ってしまった」

と報告したら、子産はさうもあらうさうもあろうと言ったといふ。「悠然」が逝くといふ動詞の副詞なら、其の間に「而」があってはいけない筈であるといふ疑問である。之に対して私は「悠然」は副詞ではないと言ったら、或る人はハッと気が付いて、数年の疑いが解けましたと言った。何か禅問答染みているが、日本語に訳して、「トシテ」といふ助詞のつく言葉は、形容詞で、副詞ではない。

○浩浩乎平沙無垠 (弔古戰場文)

といふ語は「古戦場を弔ふ文」の書き出しである「浩浩乎として平沙垠り無し」と読む。「浩浩乎」は古戦場全体の見渡す限り何も見えない、ひろびろとした風景の形容詞であって、平沙無垠の副詞ではない。

「圉圉焉たり」「洋洋焉たり」は明らかに「たり」が附いて形容詞たるに疑ひはないが、従って悠然も魚の説明であることは、推して知るべしである。然らば悠然の主語が省略されて、悠然といふ一語だけで一文である。下の「逝」も主語が省略されて、一字だけで一文である。即ち「悠然而逝」は僅かに四字しかないが、これは複文で、上の文と下の文との間に「而」が挿入されてあるのである。又離婁上に、

○沛然德教溢乎四海

といふ語がある。之を「沛然として徳教四海に溢る」と読み、「沛然」は「溢」にかかる副詞と見る人が多い様であるが、それでは副詞と「溢」との間に「徳教」の二字が挟まれている事になる。之の「沛然」は「徳教」の上に被さっているから、徳教を形容する語と見て、「沛然たる徳教」と読むがよろしい。





第六類 感嘆詞

【ア】「嗚呼」、「於戯」など。「嗚呼噫嘻」などとする場合もあり。(註)実質感動詞です。




第七類 三字以上の熟語
(註)ほぼ連詞に相当。

【ア】周礼に「服不氏掌養猛獸而敎擾之」とあり。而して其の註に「服不服之獣者」とあれば、「服」は動詞、「不」は副詞にして、「氏」は名詞。今、合して名詞とせり。(註)「服不氏」はもとより名詞。分析の対象とはなりません。これただ「服不氏」の成り立ちを謂うまでで、出来た結果より見れば名詞のみ。

【イ】「巧言令色」は名詞として用いたり。「は」の仮名を附す。動詞に用いたる例を挙ぐれば「巧言令色足恭、左邱明恥之」と云うあり。「す」の仮名を附す。(註)「巧言令色」を名詞と云いますのは、論語学而篇の用法を指すわけでありますが、それは動詞性名詞もしくは体言としての意味でありまして、本性として名詞であるのではありません。すなわち、下図の二つ目の用法ということです。


終止格の場合は上図にありますように、「す」を以って読むことになりますが、無論動詞にも格はありますから、状況に応じて立場を変ずべきものであります。たとえば、「言を巧みにし、色を令くすれば(せば、すれども、すとも等)」など。「色を令くするトキ(場合)は」と読めば変態名詞の修用格的用法。三つ目の「巧みなる言、令き色」の「巧」「令」は動詞の連体格的用法。被連体語により統率されますから、全体として連詞的名詞となります。


【ウ】「文行忠信」 (註)論語述而篇の言葉(子以四教、文、行、忠、信)で、「文行忠信ナリ」と読めば日本語として動詞なるも、漢文そのものは名詞が判定性を帯びたまでであります。「知我者鮑子也」(史記管晏列傳)の「鮑子」と同じ。
【エ】「暴虎馮河」 (註)「巧言令色」に同じ。特に分類するには及びません。

【オ】「四十五十」。動詞なり。(註)第三類形容詞の【ウ】と何が違うか困惑するところでありましょうが、文法的に全く異なるところはありません。数詞です。数詞が名詞、副詞、副体詞と為り得ることは先に述べました。どの品詞であるかは其の都度判断しますが、下に「而」があれば叙述態名詞の方法格的用法であることが明瞭です。「三十而立」など。

【カ】戦戦兢兢。形容詞なり。「として」の仮名を附す。
【キ】切切偲偲。副詞なり。

(註)【カ】【キ】いずれも象形動詞です。

切切偲偲、怡怡如也、可謂士矣、朋友切切偲偲、兄弟怡怡 (論語子路)

如何に読もうが構いませんが、士としての有り様、性質に就いての発言でありますから叙述性があるというのです。ともに動詞であり、ただ格を異にするのみです。「(其の性質が)切切偲偲たれば(従属格)」「朋友には(其の性質が)切切偲偲たれ(独立格)」の如く主語を補いうるのです。


【ク】「迅雷風烈」は副詞なり。「には」の仮名を附す。「迅雷風烈ハ」と言えば名詞なれども、此の場合には副詞に用いたるなり。(註)論語鄉黨篇に「有盛饌、必變色而作、迅雷風烈、必變」と有ります。「迅雷風烈」はそのまま読めば「迅(はげ)しき雷にして、風烈しければ」と訓めますが、体言と考えれば「迅雷風烈には、必ず変ず」と読むことになります。しかし、この「迅雷風烈」を副詞というのはあまりよろしくない。動詞もしくは動詞性名詞の連用格的用法というのみ。また前半の「有盛饌」に対すれば、「有」を補って「迅雷風烈」の意と考えるも可。此の場合も「有」が連用格的用法にあるというのみです。


新楽金橘先生曰く、
(「烈風」と言わず「風烈」と云うは)調音の為なり。二字の熟語なれば「烈風」でも差し支えなきも、四字の熟語とするときは「ふ・く・つ・ち・き」の言い悪しき音の字なれば之を先に言う事は音調が宜しからず、書経舜典には「烈風雷雨」とあり、是れは先に「烈風」があればなり

【ケ】佐藤一斎翁の文に「余東都一窮措大耳」とあり。是は六字の熟語なり。「東都」とは名詞より転じたる形容詞と名詞なれば、「匠人」の構造に同じ。「一」は形容詞の数詞、「窮」は動詞より転じたる形容詞にして、「措大」は動詞と形容詞なれば「不祥」と同じく名詞に転用せるものなり。(註)松下文法に則って分解すればこうなります。「余」は名詞にして下詞「東都一窮措大」に対して修用語となり、「東都一措大」は被修用語。統率部である被修用語を更に分解すれば、「東都」が名詞にして(わざわざ「東」と「都」とに分解するには及ぶまい)下の詞「一窮措大」に対して連体語となり、「一窮措大」は「東都」に対して統率部で被連体語。この被連体語を更に分解すると「一窮」が連体語で、「措大」が其れに対して被連体語。「一」と「窮」を更に分解するなら修用関係と云うことになります。「措大」はこのまま「書生」の意と解せばよい。

要しますに、「余」に対する被修用語の代表部は最終的に「措大」ということになりますから、この連詞の代表部は結局「措大」ということになります。連詞の骨格は「余は措大なり」というに同じです。形式感動詞である「耳」は上語すべてを統率して全体を一種の感動詞にしてしまうのです。(改撰標準日本文法『主観的実質関係』六百八十九項参照)

結局読み下せば、「余は東都の一
窮の措大なるのみ」と。






ここに於いて興味を新たにしてもらいたいのは、品詞と文の成分との違いについてであります。品詞と云いますのは、「名詞」「動詞」「副詞」「感動詞」などの類で、文の成分といいますのは各々の品詞が連詞を構成するときに如何なる関係にあるかの観点より名づけたものです。即ち、「主語」「叙述語」「帰着語」「客語」「修用語」「被修用語」「実質語」「形式語」「連体語」「被連体語」の十種です。

「花が咲く」を分解して、「花が」が主語で、「咲く」は動詞です、といったらこれは実に具合が悪い。一方は文の成分で、他方は品詞であるからです。主語に対しては「叙述語」と言わなければならんのです。而して後、主語の品詞は名詞です、叙述語の品詞は動詞です、などと云うことになります。「静かに歩く」と言えば、「静かに」は動詞の「歩く」を修飾しているから副詞である、などと分解するのではなく、「静かに」は「歩く」を修飾しているから「歩く」に対して修用語であり、「歩く」は「静かに」対して被修用語である、と分析するのです。そうしてから、「静かに」は「(音が)静かに」の如く主語を取り叙述性があり(*)、且つ内包詞であるから動詞である、動詞の他詞に対する資格は何かと言えば、ここでは修用格である、などとこのように品詞なり格なりを研究していくのです。

(*)副詞には「テ」「シテ」を付けられませんが(頗るテ、嘗てシテ)、「静かに」は「静かにシテ」とすることが出来ます。即ち動詞の一格である一致格を持つと謂うことです。漢文で「静歩」として、これを「静かに歩く」「静かにして歩く」「静けく歩く」など如何様に読むも、漢文法に於ける「静」はただ一個の連用格的用法にある動詞というのみです。「溺れて死ぬ」を「溺死す」と云うように、「静かに歩く」を文法的直訳に読めば、「静歩す」ということになります。「溺死す」に於いて其の「溺」と「死」との修用関係たるを理解するように、「静歩す」で其の「静」と「歩」との修用関係ぶりを自得してもらいたい。



漢文速成 三十三日間講座 (二)

前回は「語の研究」のうち、「単語」について簡単に述べました。単語とは漢字一字で或る全き概念を表すものでした。松下文法に所謂単辞の単詞です。それに対して今回お話致しますのは「熟語」についてであります。熟語とは漢字二字以上を連ねて或る全き概念を表すものです。松下文法に所謂連詞のようにも聞こえますが、そうではなくむしろ連辞の単詞というべきものであります。たとえば、「仁與義(仁と義と)」と言えば、これは連詞の名詞でありますが、「仁義」と言えば、これは連辞の単詞となります。ここで「熟語」といいますのは、この連辞の単詞の如きものを指して言っておるのです。無論、「仁者」のようなものは、連詞と看做すこともできますから、熟語という中には連詞も含まれることにはなります。



【語の研究】


「熟語の研究」

熟語を分かちて七類とします。すなわち、名詞、代名詞、形容詞、動詞、副詞、感嘆詞、三字以上の熟語の七つです。たとえば「我」と言えばこれは前回見ましたように単語の代名詞でありますが、「不肖」と言えば熟語の代名詞になるわけです。第七類の「三字以上の熟語」というのは随分大雑把な分類の仕方でありますが、もちろんこれにもそれぞれ品詞はあるわけでありますが、それについては第三回目の講座で述べます。


(赤字は松下文法との関係を補足したものです。読み飛ばして頂いても構いません。)


第一類 名詞

【ア】名詞+名詞
(い)意義相対する単語の名詞を連ねて二物を意味する者。たとえば、「父母」「日月」の如し。
(ろ)同義の名詞を連ねて一物を意味するもの。たとえば、「樹木」「禽獣」の如し。
(は)異義の名詞を連ねて或る一物を意味するもの。たとえば、「君子」「車馬」の如し。「車馬」は「車」に非ず、「馬」に非ずして、「馬車」の意。
(に)形容詞の如く名詞を用いて他の名詞に冠するもの。たとえば、「匠人」の如し。「匠」は大工で名詞でありますが、ここでは「人」に冠して一種の形容詞の如く用いておるのです。(註)「匠之人」と言えば連詞でありますが、「匠人」は連辞の単詞というべきでしょう。すなわち松下文法に於いては「匠人」は単詞である以上、連詞としてはもはや分解できないものとして考えます。


【イ】形容詞+名詞
(い)名詞に形容詞を冠したるもの。たとえば、「明月」の如し。「明」が形容詞。(註)「明」は動詞の連体格的用法。「月を明らかにす」と読めば、「明」を変態動詞として用いたものということになります。

【ウ】動詞+名詞
(い)名詞に動詞を冠したるもの。たとえば、「亡國」の如し。(註)松下文法にてもこの「亡」は動詞。格として連体格的用法。「亡」と「国」との関係を客体関係として、「国を亡ぼす」「国より亡(に)ぐ」と読むも可。前者は「亡」を他動性動詞とし、後者は依拠性動詞と看做したものです。
(ろ)意義無き「有」の字を冠する者。たとえば、「有虞」「有政」「有家」の如し。


【エ】形容詞+形容詞
(い)異義の形容詞を連ねたるもの。たとえば、「強弱」の如し。
(ろ)異義の形容詞を連ねるも、一方の意義が無いもの。たとえば、「緩急」「軽重」「多少」の如し。もちろん「緩急」が「緩と急と」を意味する場合もあり。(註)単念詞のこと。

【オ】形容詞+後置詞
(い)「仁者」など。(註)実質関係の連詞。実質語になるものには、名詞、動詞、副詞があります。「仁者」の「仁」は叙述態名詞の実質格的用法で従属部、単純形式名詞の「者」が統率部。「信我者」と言えば動詞(信我)が実質語で、「我を信ず、者」の意。「我を信ずる者」でないことに注意。すなわち連体語を受けるのでなく、不定法たる動詞を受けるのです。

【カ】副詞+形容詞
(い)「不祥」など。(註)修用関係の連詞。「不的にめでたし」と読めば直訳的。否定的にめでたいのです。

新楽先生曰く、

熟語にも転用することあり、右の内最後の四つは皆名詞に転用せるものなり

(註)「仁者」の「者」はもとより形式名詞でありますから、転用と云うには及びません。端から連詞的名詞です。その他については、転用はすべて詞の運用と考えてください。「不祥」も「不的にさいわいなり」の意とすれば動詞なるも、「不的にさいわいなるコト」の意と解すれば、動詞的名詞(変態名詞)となるなどの類です。



第二類 代名詞

(い)人を尊敬しては「夫子」「先生」、友人を親しみては「吾子」、国君には「陛下」「天子」と称します。
(ろ)自ら謙遜しては「小子」「不肖」「不佞」と称し、国君は「寡人」「不穀」「乃公」と称します。

(註)人称代名詞にどのようなものがあるか列挙しておきます。(『標準漢文法』九十六項参照)
第一人称 我、吾、余、予、僕、朕、台、寡人、不穀、弧、不肖、愚、小子、妾、臣、兒、鄙人
第二人称 汝、女、而、爾、乃、若、子、吾子、兄、公、卿、君、足下、先生、大人、閣下、殿下、陛下
第三人称 彼、渠、夫、他





漢文速成 三十三日間講座 (一)

我々がこの漢文講座で学ぶことは大きく分けて以下の四つであります。
(赤字の部分は私に由る註で、松下文法との関係について補足してあります。読み飛ばしていただいても構いません。)



「語の研究」「文の研究」「讀(とう)の研究」「品詞の研究」の四つです。


「語」と云いますのは「人、賢、立、於、之、甚、也、而、嗟(ああ)」などの漢字一字の単語と、単語を二字以上連ねた熟語とを指して云います。

(註)「語」は、二字以上の熟語をも含むところから松下文法に所謂「詞」に似ているも、そこまで徹底したものではありません。ここでは詞の本性論、副性論というほどの深い研究はしません。それは「品詞の研究」「讀の研究」においてなされます。

「文の研究」では漢文の構造を学びます。所謂文の解剖です。

「讀の研究」の「讀」とは、それのみにては完全でない語のことです。「鳥が」といえば、「どうした」の部分が欠けており、「飛ぶ」といえば、「何が」が欠けております。

(註)絶対性或は独立性を欠く詞のこと。すなわち断句になる途中にあるもの。連詞の他詞に対する関係を論じる点は相関論に類する者といえます。

「品詞の研究」は名詞動詞代名詞助動詞などに品詞を分類して、その性能を研究します。

【語の研究】
「語の研究」では「単語の研究」と「熟語の研究」とをおこないます。


「単語の研究」

まず単語の品詞を見ていきましょう。単語とは一字の語であります。我々は単語の品詞を分かちて十類と為します。すなわち、名詞、代名詞、形容詞、動詞、前置詞、後置詞、副詞、助詞、接続詞、感嘆詞であります。

(一)単語の名詞
人、山、川、尭、舜、など。独逸語にて「der Mann」と言えば、既に「人が」(主格)の意味でありますが、漢文の「人」はこれのみにては如何なる立場にあるか明らかではありません。「人は」「人が」「人に」「人を」「人と」「人とす」「人の如く」などのいずれであるかを常に考えなければなりません。然らば、どのようにして格を知るかと言えば、それは語の位置や文脈によってであります。

(ニ)単語の代名詞
我、汝、彼の類です。

(註)松下文法に於いては、大なる「名詞」という類概念のもとに、「本名詞」「代名詞」「未定名詞」「形式名詞」の四つに更に分類されることになります。要するに「人」も「我」も「誰」も「者」も皆文法的性能に於いてはそう大きく異なることはないので、品詞としては「名詞」に分類し、些細な違いは小分類としておこなうのです。

(三)単語の形容詞
賢、高、一など。

(四)単語の動詞
負、立、思など。

(註)松下文法では動詞も形容詞もいずれも動詞として扱います。両者いずれも作用概念を表すもので判定性がありますが、その表し方が異なります。一方は時間の形式に由る作用の認識で、他方は時間の形式に由らない作用の認識の仕方であります。前者を動作動詞といい、後者を状態動詞というのです。漢文では「美」は「美し」か「美しかり(美しくあり)」か判然としませんから、動詞という統一的な概念で括ってしまうのです。「美之」とあれば、形容詞でなく動作動詞であることが明瞭になります。

(五)前置詞
於、于、乎など。下の詞を統率して、他詞との関係を表すもの。

(六)後置詞
之(の)、者、乎など。上の詞を統率するもの。

(註)松下文法にも前置詞はありますが、それは副詞に含まれます。また(五)の「乎」と(六)の「乎」とは文法的に異なるものでして、前者は単純形式動詞で、後者のは単純形式感動詞です。

(七)単語の副詞
静、甚、愈など。

(註)「静」は文を結ぶ能力(判定性)もありますので、動詞です。「静かに」と読んだ所が、結局動詞の連用格的用法というまでで、品詞が変わるわけではありません。「甚」も同様。泉井久之助氏曰く、「副詞の本質は一体どこにあるのか。『赤く』『広く』などは未だ副詞の本質をそのまま体現しているものとは思われない。そこには「赤」「広」というような本質的に副詞的ならざるところの剰余がある。副詞の本質はかかる剰余をすべて捨てていった極限、即ち単なる存在、否定、制限を示すところの、たとえばアリストテレースの、たとえばカントの範疇論中の、性質の範疇に純粋に関係するところにあるのではないか」と(『言語の構造』四十五項)。

(八)助詞
也、矣、焉など。

(註)松下文法に所謂形式感動詞の類。「也」は決して日本語の「なり」ではないことに注意。では何かといえば、それは上の語の主観的再示であります。「彼君子也」と言えば、「彼は君子である(彼君子)、そうであるなあ(也)」の気味。是れ、「也」が辞ではなく、詞である所以であります。

(九)接続詞
且、而、夫など。

(註)副詞の一種にして寄生形式副詞。他詞に勝手に寄生して其の意義を以って下の詞の運用に掛かります。

(十)感嘆詞
噫、嗟、唉など。

(註)実質感動詞です。


「賢人(賢き人)」の「賢」が形容詞で、「挙賢(賢を挙ぐ)」の「賢」が名詞で、「賢之(之を賢とす)」の「賢」を動詞だといえば、如何にも漢文には品詞などあってないようなものの如くにも見えましょう。しかし、理論的なことを申せば、最初の「賢」は動詞の連体格的用法、次のは動詞性名詞(変態名詞)の客格的用法、最後のは動詞性再動詞(変体動詞)の終止格的用法というのみにて、いずれも動詞としての性能を主として、もしくは従として持っておるわけです。要しますに、動詞を動詞として用いるか、動詞を材料として他の性能で以ってそれを統率するかの差があるというばかりです。掴みどころが無いように見えても、一定の法則があるのです。


「学は疑ふを知るを貴ぶ」と訓みます。明代の学者、陳獻章の『陳白沙集』に見える言葉です。第一回目の講座は平凡なる内容にがっかりされた方も居るかもしれません。しかし、この平凡なものに対して少しく深く考えてみれば、やはり幾つかの疑問もまた出てくることと思います。たとえば、そもそも品詞とは何か、名詞とは何かと考えてみれば前途茫洋として惑いに似たる観を呈するも、ここに於いて初めて進むことが出来るのです。朱子もまた其の読書法にてこう言っております。「疑問を持たざるものは疑問を持て。疑問のあるものは疑問を無くせ」と。


リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ランキング