FC2ブログ

これから漢文法を学ぼうとしている方へ

私自身が漢文の勉強をどうはじめたかといいますと、塚本哲三氏の「漢文解釈法」を使って白文(訓点も句読も無い文)の読解練習をしました。この参考書は漢文読解の根底となる表現(アア、イヅクンゾなど)を百四十に分けて、それぞれに支那人、日本人の書いた漢文(白文)を配してありまして、其の後に訓点、語釈、解釈が続きます。これ一冊に三百ほどの白文が入っておりますからたしかに相当な効果はありますが、文法的な説明は少ないのですね。最後のほうに三十項ほど割いて文法の簡単な解説が附いておるのみです。ただ多くの漢文に接することで確かに読める漢文は増えます。しかし、文法的に裏打ちされた知識があるわけではありませんから、ちょっと変則な漢文にあたりますともう手も足も出ませんし、たとい読めたにしろどうもしっくり来ないことが多いのです。たとえば、

君子之處世、必乎仕則忘其身(方正學) 
(君子の世に処する、仕ふるを必ずとすれば、則ち其の身を忘る。)

この「乎」は一体なにか、なぜこんなところにあるのか、それに対して「漢文解釈法」ではこう解説しています。「必乎は乎という前置詞が副詞を動詞化した用例」(四十三項)と。なるほど、たしかに上記にあるように「必ずとすれば」と副詞「必ず」が動詞化して訓読されております。しかし「乎」の前に副詞があればなんでも動詞化するのかといいますとそうではありませんし、もっと言えばこの説明は訓読上の説明でありまして文法的なものではありません。訓読するときに動詞化してよむと良い、というだけでして決して漢文そのものの品詞を論じているわけではないということです。結論から言いますとこの「乎」は連用的格の詞、品詞でいいますと副詞なり名詞なりの下について上の語の意義を高調しているに過ぎません。「必」を強調して、「必ずや仕える、必ずさあ仕える」という風に読めばほぼ直訳になると思います。(標準漢文法・形式感動詞三百七十一項参照)


於從政「乎」何有(論語・雍也) (政に従うに於いて何か有らん)
君子去仁,惡「乎」成名(同上・里仁) (君子仁を去って、いづくにか名を成さん)
有時「乎」為貧(孟子・萬章下) (時有りてか貧に為にす)
況「乎」所以待天乎(荘子・山木) (況や天を待つ所以をや)
この「乎」みな同じ用法です。「乎」だけではなく、「也」にもまた同じ用法があります。

受命於地,唯松柏獨「也」在(荘子・德充符) (命を地に受くる、ただ松柏のみ独り在り)
必「也」使無訟乎(論語・顏淵) (必ずや訟なからしめんか)
必「也」以臆言乎(亀井南冥・論語語由子路)

この「也」も前の「獨」「必」を提示し、「ただ松柏のみ、独りそればかりがさあ、在る」というに似た気味があると思います。直訳しにくいですが、連用語の高調されたものであるということを意識していただきたい。

話し変わりまして、十八史略を読みますと、
天皇氏以木徳王 (天皇氏、木徳を以って王たり)
とありまして、この「王」がなぜ「王たり」になるのか、これが腑におちないのです。こういうものは結局文法を体系的に学ばなければ解決できないものです。漢籍を読む時に、自分の読み方は当たっているのか、この不安を取り除くにはやはり文法を本格的に学ぶしかありません。私は松下大三郎博士の「標準漢文法」を基礎に漢文法を学習しておりますから、説明もおのずからそれに従ったものになることをあらかじめ申し上げておきます。
スポンサーサイト



リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ランキング