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「無乃」について

「無乃」

今男女同贄、是無別也、男女之別、國之大節也、而由夫人亂之、無乃不可乎 (春秋左氏傳莊公)

今君德無乃猶有所闕、而以伐人、若之何 (春秋左氏傳僖公)

今季孫乃始血、其毋乃未可知也 (韓非子說林)

*「毋」は「無」に同じ。

簡野道明先生の『字源』を見ますと、「無乃」は「無寧」と同じで、反語となり「むしろ何何することなからんや」と訓むと記してあります。松下博士も同じく以下のように述べられております。

(上記の例などは)「乃ち不可なる無からむや、乃ち不可なり」「乃ち猶闕くる所有る無からむや、乃ち猶闕くる所有り」の意で「乃」の意に変わりはない。この「無乃」を一語と思い「ムシロ」と読むのは善くない。

いずれも「無」を反転させて読んでおりますが、そうなることが多いというのみで必ず反語になるというわけではありません。


「無寧」

(い)且予與其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎 (論語子罕)

(ろ)天其以禮悔禍于許、無寧茲、許公復奉其社稷 (左傳)

前者、後者いずれも註において「無寧、寧也(無寧は寧なり)」とありますが、前者は「無」を反転させてそのまま読めばよいのです。すなわち、「寧ろ二三子の手に於いて死すること無からんや(*)」と。然るに、後者の「無」は反転しません。「無寧茲」は『春秋左傳今註今譯』の訳を引けば、「不但如此(但此くの如きのみならず)」の意でありますから、「無」を反転させてしまいますと意味が合わなくなってしまうのです。

(*)金谷治氏の論語では「無寧(むしろ)二三子の手に死なんか」と「無寧」を「ムシロ」と一語で訓まれております。上の訓み方(反転)と結果的に同意義にはなりますが、一方は反転させ、他方は正説に解したことになりますから、文法的形式(心理的作用)において差があるといえます。「むしろお前たちの手に於いて死にたいものだ」(正説)と「お前たちの手に於いて死にたいということが無い、いや、そうであろうか」(反転)とを比べてみてください。後者は一度思惟した内容を再び反省しておるのです。思惟の反省を経て後、「むしろお前たちの手に於いて死にたい」という意義に達するのであり、端から肯定であるのとは大いに趣を異にします。

「寧」は王引之『經傳釋詞』に以下のようにあります。

寧、乃一聲之轉、故乃訓為寧、寧亦訓為乃 (寧、乃は一声の転なり、故に「乃」は訓じて「寧」と為す、「寧」も亦た訓じて「乃」と為す)

「寧」と「乃」とは相通ずるのです。よって(ろ)の「無寧茲」の「無寧」は「無乃」の意と解して、尚且つ反転させず、「寧(すなはち)茲のみなる無し」と訓むことになります。「無寧茲」を註に従って「寧茲」と解して、「寧ろ茲のみならんや」、または、「寧んぞ茲のみならんや」と反転させて訓むのと、正説に「茲れのみなる無し」と訓むのとでは、意義こそ同じとは言え、文法上の形式が斯く異なるのであります。

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比較の相

支那の文学者、林語堂曰く、

更に注意せねばならぬのは、比較級及び最上級は、いくつかの物を比較するためにのみ用いられる、ということである。アメリカのギャングのアル・カポネよりもbetterな人間は必ずしもgood(善良)な男とは限らないし、中国の逓信大臣よりもmore honestな男が毛頭正直者とは言えないこともあろう。比較的な言い方をすれば、この学生はあの学生よりもolderではあろうが、絶対的に云えば双方とも真にoldであるとは言えない。それ故、原級(old)はどこまでも絶対的であるのに対して、比較級と最上級(older、oldest)は、相対的なものである。

かくして我々は、better manはgood manよりbetterなわけではないという結論に達し、同時に、the best manが実際にはbetter manより一段と善良なわけでもないことを知るのである。the best manは、単に残余の誰よりもbetterなだけである。もし、Aが十三歳、Bが十二歳、Cが十歳だとすれば、Aはたとえ、the oldestだとは言っても、たかだかBとCよりolderであるに過ぎない。其の上、Aは実際のところ、毛頭「old」ではないのである。



松下博士は、概念が比較的であるか、そうでないかを分けてそれぞれに比較態、区分態(英文法に所謂原級)という名称を附せられております。たとえば、山は高いといえば、この「高い」という概念は山を主としてその性質を表明したまでで、高いか低いかで言えば「高い」であるというわけです。こういう概念の扱い方を区分態といいます。比較態とは概念を区分的に扱うのではなく、或る者を対手にしてその程度を論じるのです。ある基準を設けてそれに対してはどうである、ということを論じるのが比較態ですから、必ず比較の対手を客語に取ります。比較の対手である概念を得て初めて全き意義となるのです。漢文の場合は動詞(連詞的動詞を含む)の下に「於、于、乎」の形式動詞を取って、さらにその下に比較の対手を客語として取ります。要しますに、漢文では比較を表すに依拠性を以ってするのです。我々が比較格を以って表すものを、彼らは依拠格を以って表すのです。



比較について、明治から昭和にかけての漢学者、服部宇之吉博士の論理学書の説明が分かりやすいので以下それを引用します。

【相対名辞と絶対名辞との別】

若し茲に一種の事件有りて二人(或は二物)若しくは多数の人(或は物)均しく此の事件に関係し而も之に関係するに就て各々其の分を異にし両方に対立する場合に於いて此の事件に基づきて双方の人(或は物)に与へたる名称を相対名辞と云ふ。之に反して斯かる関係なくして与へられたる名称を絶対名辞と云ふ。(省略)夫婦、君臣、因果等は皆相対名辞なり。(省略)茲に注意すべきことは何れの語も多くは両々相対して用いらるるものなることなり、例之ば長短、大小、美醜の如し、美とは醜に対する語、長とは短に対する語なり、美なくんば醜豈に獨り存せん、長なくんば短豈に獨り存するを得ん、されどもこれ等は唯両々相対するに止まり、同一の事実若しくは事件に其の分を異にして関係するにはあらず、故にこれ等をば相対名辞とは云はず。然れども若し二物を比較して一物は他物よりも長しと云ふ時はより長してふ関係に入り来る、二個の物名は相対名辞となる


特に下線部に注意してください。青下線部は、これは言ってみれば区分態のことで、赤下線部は比較態のことに当たります。

富士山と泰山とを対手せしめ、その一事件において一方より見れば、「富士山高於泰山(富士山は泰山により高し)」であり、他方より見れば、「泰山低於富士山(泰山は富士山により低し)」となるわけです。

すなわち、比較態とは、或る物と或る物とを一事に於いて関係させ、一物(主語)の性質(比較態の動詞)を他物(比較の客語)に対して論じたものであるということができます。「父」という概念が「子」という概念なくして了解せられないように、比較態の概念は比較の対手なくしては解せられないのです。

比較の相は概ね状態動詞(所謂形容詞)によって表されますが、比較的に考えられたところの動詞ならなんでも比較態になります。日本語で言えば、「歩くよりタクシーに乗ろう」などがその例です。「タクシーに乗ろう」という連詞的動詞が「其のほうが善い」という形式的意義を帯びて比較的に考えられておるために、その形式的意義の比較の対手として客語「歩くより」を取るのです。(『改撰 標準ニ本文法』六百七十七項)

漢文の例を示せば以下のようなものです。

身於為天下、則可以託天下、愛身於為天下、則可以寄天下 (莊子在宥)

「為」は本動詞で「治む」の意。赤字の「以」が比較的に考えられた前置詞性単純形式動詞です。「貴」は其れに対する補充語。「貴以身(貴ぶに身を以ってす)」という概念を「為天下(天下を為む)」という概念に対手させて考えておるのです。ただ単に自分の身を大事にする者を天下を託するに値するものであるというのではなく、天下を治めるという大なる事業に比較して、猶そんなことに頓着せずに自分の身を大事にするようなものこそ天下を託すに値するというのです。

為天下、寧貴以身 (天下を為めんよりは、寧ろ貴ぶに身を以ってせん)
貴以身、甚於為天下 (貴ぶに身を以ってすること、天下を為むるにより甚だし)

などというに同じ。

「與」について、松下博士云う、

「與」が比較の対手を表すのは其の修飾される動詞が「其のほうが優っている」といふ形式的意義を帯びるから、「與」が其の形式的意義に対して対手を成すのである。 (三百四十四項)







杉田玄白 『解体新書』

以下は「解体新書」の凡例を記した箇所。
赤字は私が入れたもので、それぞれの箇所に簡単な文法的説明を施していきます。「何項参照」とあるのは、松下博士の『標準漢文法』における該当箇所です。



(い)
「斯」は副体詞(この)。代名詞の連体格的用法(これの)ではありません。副体詞「斯」は連体格として下の「書」に従属します。すなわち「斯書」は連体関係の連詞。連体関係の連詞の代表部(統率部)は被連体語の「書」で、これが名詞ですから「斯書」は全体として連詞的名詞。この連詞的名詞は修用格的用法(題目語)にあります。「斯書譯某書(斯の書は我、某書を訳したるなり)」と「我」を補うと分かりよい。

主体的提示語と看做した場合、「斯の書は、和蘭人(オランダ人)与般亜単闕児武思(ヨハンアタンキュルムス)の著すところの『打係縷亜那都米(ターヘルアナトミイ)』を訳したる者なり」と「米」の字から「訳」に返って読むこともできますが、此の読み方はやや理屈に流れすぎたものといえましょう。原文の訓点に従って読んだ場合は、「斯の書は、和蘭人(オランダ人)与般亜単闕児武思(ヨハンアタンキュルムス)の著すところの『打係縷亜那都米(ターヘルアナトミイ)』なる者を訳す」となります。この訓み方でよいと思います。

(ろ)
「和蘭人」と「与般亜単闕児武思」との連詞関係は修用関係。「和蘭人」は名詞にして平説的修用語。「聖人孔子」の「聖人」と「孔子」との関係に同じ。「聖人の孔子」との違いに注意。(『標準漢文法』六百八十七項、「事物の種類の修用語」参照)

「与般亜単闕児武思」は既に「和蘭人」という類の概念で以って修飾されておりますから、これは固有名詞でして模型名詞ではありません。仮に「与般亜単闕児武思、和蘭人(与般亜単闕児武思は、和蘭人なり)」とあれば、この「与般亜単闕児武思」は模型名詞。なぜなら、「与般亜単闕児武思」は人を指すのでなく、固有名詞を指すためです。人を指すとしての名詞ならこれもまた固有名詞。その名詞が模型名詞か、然らざるかはその名詞の運用次第。

(は)
「打係縷亜那都米」は模型名詞。「医学書」と言えば普通名詞。ここでは概念を表すに表象の模型を以ってしておるのです。「者」は前語の外延の再示。「打係縷亜那都米」と「者」との関係は実質関係。実質関係の連詞の代表部は形式語でありますから、「打係縷亜那都米者」の代表部は「者」(単純形式名詞)。其の格は「訳」に対して客格的用法。

「連体格的用法」や「修用格的用法」、「客格的用法」などと、わざわざ「的用法」と持って回った表現をしておりますのは、漢文の詞には明瞭に格を示す記号がありませんで、そういうのを一般格といいます。「酒持って来い」の「酒」などと同じです。一般格ではありますが、用法は種々あるわけです。そこで「~的用法」という表現をしておるのです。客格的用法は客格ではないのです。客格は「酒を」なのです。「酒持って来い」の「酒」は一般格の客格的用法というのです。

(に)
「就」は「就之」の意。

説話の続きの上から客体が決まっている場合には客体が概念化せずに済むから客語が要らない。 (『標準漢文法』六百四十二項、一般性非帰着化(三)参照)

(ほ)
「者」は主体的用法(「者」の用法。百十二項参照)。「受」の主体を表します。「受」は「者」をして自らの主体を表さしめて、これに対して実質語となります(五百九十三項「特殊性合主化」参照)。「someone who 就受 其の医術(ソレガ其の医術を就受するソレ)」の意。学習者本人を指します。もし「所就受其医術(就いて其の医術を受くるところ)」とあれば、これは自分が師事するところのオランダ人医師を指すことになります。すなわち、「someone under whom  (主語) 受 其医術」の意。

(へ)
「有」「無」「多」「少」などは皆帰着性の動詞で、客語を取るものです。主語が動詞の下に来るなどと考えないように。「有嶋」は「嶋を有り」であり、この「有」は自然的他動を表し、「嶋」はその他動性に対する客語です。日本語で言えば、「嶋が在る」ではなく、「嶋有り」です。(帰着形式動詞「有」については百九十三項参照)

然るに原漢文においては客体概念が提示されています。平説に「オランダ人に就いて其の業を受けるものが多い」と言うのでなしに、「受けるものについてはそれは多い」と提示されておるのです。(「提示的修用語(直接客体の提示)」七百一項参照)

(と)
「至」は一般性合主化。

其の詞の意義上主体が一定している事件を表すものは合主化する。 (六百項)

この「至」の主体は何か、何が至るのか、「場合」が至るのです。彼らの術を学んでやっと生活が出来るというくらいであるから、どうしてその「場合」が、彼らの書を読み彼らの学問を研究する「場合」に至らんや、というのです。

(ち)
「精乎」は実質関係の連詞。「乎」は無論無くとも構いませんが、これある為に「精」が依拠性であることが明らかになります。漢文の名詞は格を表すに粗なため、形式動詞で其の不備を補うのです。「乎」は前語の動詞の依拠性なるを表す単純形式動詞です。「精乎」全体で連詞的依拠性動詞となります。すなわち次に来る語は依拠格的(~に)であります。

(り)
この「者」は客体的用法(百十四項参照)。「意者(おもうに)」の「者」の用法もこれに同じ。直訳的に読めば、「ソレヲ思うソレ」であります。「所意者」とした場合は意味は同じですが、この「者」は「所意」の「所」を指し示すものでして、「意」の客体概念は「所」が表します(百十八項(七)参照)。

(ぬ)
「徳乎」はさきの「精乎」と同様、連詞的依拠性動詞。「有徳乎四海者」全体は連詞的名詞で、題目語(修用語)。

(る)
「作用異常」の「異常」は、図の送り仮名にある通り、「常に異なる」と読んでおりますが、これをもう一度漢文に直すと「常異」としてしまう人もおるかもしれない。我々の感覚では「常に」と言えば修用語に聞こえる(無論修用語の意味にも使います)、しかし、原文の「常」は依拠格でありまして、「異」という作用が「常」において行われると謂う意味での「常に」なのです。「先日聞いた話に異なりて」の「に」と同じです。「常」は修用語ではなく、客語です。もちろん、「異常(いじょう)」とそのまま音で読むも可。

(を)
この「得」は修飾形式動詞(『改撰 標準日本文法』では「接頭形式動詞」としてある)です。被修用語によって実質的意義を得る形式動詞です。日本語の例を挙げれば、「も言はず」「打ち忘る」「掻き曇る」などの「得」「打ち」「掻き」であります。ただこれらも一詞化(単純観念化)すれば修飾形式動詞ではなく、助辞(接頭辞)となります。

「打ち」や「掻き」は、大槻文彦博士(祖父は杉田白、前野良の弟子である大槻玄沢)の『言海』にはこう説明してあります。

打ち鳴らす、打ち砕くなどは、打つ意あるを、かやうに多く他の動詞に重ね用いるよりして、遂に唯其の意を強くするばかりの用ともせしならむ。

動詞の意味を強くする接頭語。

要しますに、形式的意義のみにて、実質的意義は後語によって補充せられるのです。「打ち忘る」全体で実質・形式相備わる動詞となるのです。

「得て言はず(不得而言)」と言えば、「得」は修飾形式動詞でありますが、「言ふを得ず(不得言)」と言えば、「得」は帰着形式動詞です。漢文の場合は、間に「而」があれば修飾形式動詞であることが明瞭になりますが、なければ不明瞭になります。

また漢文の「得而」は概ね否定か反転語となる場合に用いられます。ここも上に「靡(なし)」という否定語があります。

(わ)
「業」は動詞。厳密に云いますと、名詞性動詞(変体動詞)の思念的用法(~とす)というものです(四百三十六項(三)参照)。「~にす」と解すべきものは客観的用法といいます。たとえば、以下のようなものがそうです。

是欲臣妾我也、是欲劉豫我也 (戊午上高宗封事)

「臣妾」も「劉豫」も名詞性動詞の客観的用法。「使我為臣妾(我をして臣妾ならしむ)」「使我為劉豫(我をして劉豫ならしむ)」の意。実際に客体を変じて然あらしむることをいうのです。「我」は「臣妾」「劉豫」が臨時に帯びたところの「為」の他動性に対する客語です。其れに対して訓読したときの「臣妾に」の「臣妾に」は、自身が臨時に帯びたところの「為」の一致性に対する客語ですから、動詞の一致格的客語です。つまり、突き詰めて言えば、これも四百六十七項にある「動詞性再動詞」に分類することも不可とは言えないものですが、一致格的客語の材料が名詞であることに変わりはありませんので名詞性動詞とするの穏当なるには及ばないものです。

「動詞性再動詞」は、「其心(其の心を正しくす、または正しとす)」「我国(我が国を強くす、または強しとす)」などを言います。()内の訓読はそれぞれ客観的用法と思念的用法の場合です。一致格的客語の材料がいずれも形容動詞であることを確認してください。



梁啟超 『論進步(進歩を論ず)』

それではここら辺で今までの知識を確認しておきましょう。今回は前回の考試と異なり句読無しの白文です。紙と鉛筆を用意して、以下の文を先ず写しましょう。写すときには句と句とのつながりを考えながらしましょう。たとえば、出だしの「吾昔讀」の「吾」は果たして主語か、提示的修用語か、「讀」はこれで切れるかどうか、これで切れるなら果たして何を読んだのか、そう考えて次を見れば読んだ書物が示されておる、更に其の後の「好之」はここで切れるのか、下の詞に従属するのかどうか、従属するならば如何なる格で以って従属するのか、連体格か連用格か、連用格ならば主格客格か、方法格か、機会格かなどと考えながら読んでいくのです。無論、このような読み方は勉強のためにするのでありまして、慣れてしまえば無意識に分かるものです。

文法的に殊更に変わったところはありませんが、どうしても読めない場合には下の解釈を読んで下さい。漢文は意味が分かってのち読めるものです。すなわち解釈が出来れば読めるのです。解釈が出来なければ、詞の格一つとっても決定できないのです。

吾昔讀黃公度日本國志好之以為据此可以盡知東瀛新國之情狀矣入都見日使矢野龍谿偶論及之龍谿曰是無异据明史以言今日中國之時局也余怫然叩其說龍谿曰黃書成于明治十四年我國自維新以來每十年間之進步雖前此百年不如也然則二十年前之書非明史之類而何吾當時猶疑其言東游以來證以所見良信斯密亞丹原富稱元代時有意大利人瑪可波羅游支那歸而著書述其國情以較今人游記殆無少异吾以為豈惟瑪氏之作即史記漢書二千年舊藉其所記載與今日相去能几何哉夫同在東亞之地同為黃族之民而何以一進一不進霄壤若此


【語釈】「日本國志」は黃公度(清朝の政治家)による日本近代の歴史書。「東瀛(とうえい)新國」は日本のこと。「矢野龍谿」は明治期の官吏。「异」は「異」に同じ。「斯密亞丹『原富』」はアダム・スミスの『国富論』。「意大利人瑪可波羅」はイタリア人のマルコポーロ。「几」は「幾(ちかし)」に同じ。「霄壤(しょうじょう)」は天地に同じ。雲泥の差あることの喩え。

【解釈】
私は昔黃遵憲の『日本國志』を好んで読んでいて、自ら思うにこれで新しくなった日本の国情を知悉することが出来ると。しかし、日本の公使矢野龍谿と議論することたまたま是に及んだときに、彼が言うには、こんなもので我が国を知ろうとするのは明史を以って今の中国を知ろうとするようなものだと。私はむっとして其のわけを尋ねると彼はこう言う。曰く、日本國志は明治十四年に出来上がったものだが、我が国の維新以来の進歩は十年で以ってこの百年を上回るほどのものである、そうであるならば二十年も前に書かれたものは、二百年以上も前のものに相当する。これはまさしく明史でもって今の中国を知ろうとする者にあらずして何であろうか。私は当時猶其の言を疑っていたが、いろいろと見聞するところを以って調べてみると彼の言うとおりであることが分かった。アダム・スミスの「国富論」にマルコポーロの支那見聞記を評して今の人が書いた記録と比べてみるに、殆ど異なるところが無いと。思うにこれはマルコポーロの記録との比較において然るのみならず、二千年前に書かれた史記漢書の類と今を比較してみてもやはり同じである。均しく東亜の地に在り、均しく蒙古民族でありながら、どうして一方は進み、他方は進まず、これほどの差になってしまったのであろうか。



山田方谷『漢洋一貫』の論

以下は幕末の儒学者、山田方谷の漢学洋学に差別無きを論じた一節。

方今之學漢也洋也何曾有二致漢是溫故洋是知新漢洋一貫可以為師矣

【語釈】「方今(ほうこん)」はただいまの意。今に方(あた)ってと読むも可。「方」は文法的には帰着形式副詞(前置詞)。「二致」は致を二にするの意。「致」は行き着くところ。「溫故」「知新」は、論語為政篇に「溫故而知新、可以為師矣」と有り。ただ詩文を暗誦するのみにては自身の心に得るところ無く、其の知識にも限りがあるのに異なりまして、真に学んだものは、其の得るところ我に在りますから、其の応用極まること無くして人の師となることが出来るの意。

【訓読】
方今の学は漢なり、洋なり、何ぞ曾(かつ)て二致有らん、漢は是れ故(ふる)きを温(あた)ため、洋は是れ新しきを知るなり、漢洋一貫して以って師と為るべし。

【解釈】
漢学洋学にどうして異なることがあろう。漢学は過去を研究し、洋学はそれを未来に活かす学問であって、二つながら修めて以って人の師となることができるのである。

元良勇次郎博士云う、

過去を追想し、若くは歴史を研究するなども、一方より考ふるときは、未来の意志活動の補助として之を用いんとするに過ぎざるなり。「温故而知新」の語もまた此の意に外ならざるなり。 (『心理学概論』三百六十五項)



【文法】
「漢溫故」「洋知新」の「是」は文法的には修飾形式副詞でして、所謂繋辞(英語のbe動詞など)の類ではありません。

松下博士曰く、

「是」を肯定副詞として用いることは極古くは殆ど無かったようであるが、史記あたりからそろそろ見え始め唐宋頃の時代文には盛んに用いるようになり、以って今日の俗文や口語に及んだものであらう。

『子曰富與貴、人之所欲也、不以其道得之、不處也、貧與賤、人所惡也、不以其道得之、不去也』 (論語里仁)

の「是」などは代名詞であって「此」と通ずるものである。併しこれが一寸転じて其の外延性を失えば直ぐに副詞になり、「すなわち」と云ふような心持の語となる。そうなればそれが肯定副詞である。

西洋人の書いた支那文典には揃いも揃って「臣是酒中仙」などの「是」を動詞だとしている。即ち「是」は「あり」で「非」は「あらず」だといふ。「臣是酒中仙」は「臣は酒中の仙に是(あ)り」といふことになる。私たちも一時そう思った。併しこれは日本人が「これ」と読んだのが正当な見解であらうと思ふ。 (三百五十九項)



漢文の構成は頗る簡単

倉石武四郎氏の『支那語教育の理論と実際』(百六十七項)という書に曰く、支那語の構成はたった三つの原則に帰納し得ると。その三つとは、

(一)主語の次には説明語が来る、もし補語を必要とする場合は、補語が説明語の次に来る。

(二)補語がたとへば「我送張先生一本書」と云ふ様に人を示すものと物を示すものと二種類必要な場合は、人を示す補語が先で物を示す補語が後になる。(*)

(三)修飾語は修飾される言葉の前に置く。


これは当然松下文法に照らしてみても全く矛盾するものではなく、松下文法はこの三つの原則を演繹敷衍したものということもできます。この三つの原則を覚えれば如何なる漢文も分析しうるのです。

(*)(二)の原則については、少し注意が要りまして、倉石氏が挙げておられる「送」という動詞は、松下文法でいえば依拠兼他動性の動詞と言いまして、この類の動詞の場合は確かに依拠性の客語(ニ格)を先にし、他動性の客語(ヲ格)を後にするのでありますが、もう一つ他動兼依拠性の動詞というものがありまして、動詞がこの類の場合には他動性の客語を先にし、依拠性の客語を後にすることになります。たとえば、

河南 (君を河南に封ず)
其民河東 (其の民を河東に移す)
諸侯 (徳を諸侯に施す)

などであります。また依拠兼他動性動詞、他動兼依拠性動詞のいずれの場合に於いても形式名詞の「之(これ)」は必ず先に置かれます。例を挙げれば以下の如きです。


溝中 (之を溝中に内る)
公問 (公、之に政を問ふ)

上は他動兼依拠の場合、下は依拠兼他動の場合。いずれも形式名詞「之」が先に置かれておることを確認してください。(詳細は『複層の客語』七百九十六項参照)

実際にこの三つの原則だけで本当に漢文を分析できるか一つ例をとって見てみましょう。

以下の句は、江戸時代の儒学者、室 鳩巣(むろきゅうそう)が自らを戒めるために書いた自警十條の一節です。

不可妄語雖下人不可接無益之言

まず「不」は「可妄語」に対して修飾語として修飾される語の前に置かれています。つまり(三)の原則です。「可」は説明語でありますが、無論ただ「可なり」と言ったのでは意義を尽くしません。意義を補充するための補語が必要であります。それが次の「妄語」です。つまり「可」と「妄語」との関係は(一)の原則であります。また「妄語」の「妄」は「語」を修飾する語で、修飾される「語」の前に置かれておるのです。つまり(三)の原則です。

次に「雖下人」の「雖」は修飾語として「下人」の前に置かれておるのですから、(三)の原則です。「雖」は副詞です。「下人と雖も」と返って読むのは直訳的ではありません。後半の「不可接無益之言」の部分も前半部と同じです。一つの動詞に客語は一つしかありませんので、この例では(ニ)の原則は使いません。すなわちたった二つの原則を知っておるのみで、この漢文は読めるのです。

帰着語の非帰着化

試以詰難他人者以自詰難、庶幾自見得失 (朱子讀書法)

後半の句は「自ら得失を見るに庶幾(ちか)からん」と読めば良さそうでありますが、前半はどうか。



松下大三郎博士の『標準漢文法』六百三十九項に帰着語の非帰着化する場合を挙げて其の一つに曰く、

修用語たる帰着性動詞又は前置詞の下に、それに対する被修飾語が有って、其れが形式副体詞「之」に対して(或は「之」無しに)客体を表す語へ続く場合

に非帰着化する、とあります。

私は便宜のために勝手にこれに名前を附けて「連間接客体の非帰着化」と呼んでおりますが、まず間接客体なるものから説明いたしますと、間接客体といいますのはたとえば「毒を以って彼を殺す(以毒殺彼)」という文を例に取れば、この「毒を」が間接客体というものでして、つまり「毒を以って彼を殺す」という連詞の代表部(殺す)の客語(彼を)ではなく、従属部(毒を以って)の客語のことを間接客体と云います。代表部の客体のことはこれを直接客体と云います。

よって「連間接客体」とは「間接客体に連なる」と云う意味です。間接客体に連なる場合に非帰着化するとはどういうことかと云いますと、たとえば「為買美田(之)子孫(為に美田を買う(の)子孫)」というのを例に取れば、この「為」が間接客体(*)に連なるために非帰着化しておるというのです。本来「為」は前置詞でありますから帰着性があるわけでありますが、ここでは自らの客体を帰着語として統率するのではなく、却って客体概念のほうが被連体語に、すなわち統率語になっておるのです。従属語(為)は非帰着化し下の被修用語に対して修用語として従属しております。

もし非帰着化せずに言えば「子孫の為に美田を買う子孫」となり煩わしくなるのです。客体概念を表すに、客語と被連体語の二つを以ってする必要はないのです。「鳥が飛ぶ鳥」と言わずに「飛ぶ鳥(飛鳥)」と合主化して言うのに同じです。通俗に言えば、従属部の主客体の省略です。

(*)「為」自らに対しては無論直接客体でありますが、従属部の客体として見て間接客体なのです。「飲む酒(飲之酒)」といえばこの「酒」は「飲む」に対して直接客体でありますが、「飲んで酔う酒(飲而酔之酒)」と言えば、この「酒」は「飲んで」に対して間接客体なのです。なんとなれば「飲んで」は「飲んで酔う」なる連詞の従属部だからであります。「酒」は代表部「酔う」に対する客体ではなく、従属部「飲んで」に対する客体なのです。


最初にあげた例文をもう一度見てみましょう。

以詰難他人者自詰難、庶幾自見得失

これを「試みに他人を詰難する者を以ってして、以って自ら詰難すれば」と訓めなくはないのでありますが、そう読むと後ろの「以」がどうもしっくり来ない。無くてもよい。然るにここに於いて「連間接客体の非帰着化」を思い出してもらいたい。すなわち前の「以」は非帰着化した前置詞で、自らの客体である「者」を統率せず、却って客体概念「者」のほうが被連体語として統率語になっておるのです。「以って人を殺すの甲兵(以殺人之甲兵)」などと同じ構造だと考えるのです。そうしますと、こう訓めます。

試みに以って他人を詰難する者をば以って自ら詰難すれば

と。つまり「以詰難他人者」なる連詞の代表部は「以」ではなく、「者」なのです。後ろの「以」に対する客体の提示です。本来、

所以詰難他人者自詰難 (試みに以って他人を詰難する所の者をって自ら詰難すれば)

とあるべき客語を前に提示したのです。間接客体の提示です。

このような構造の句は普通は「以詰難他人者」「以殺人之甲兵」などと「所」を附して書くことが多いのでありますが、無くてもかまわないのです。それが連間接客体の非帰着化です。「所」があれば、「所」は内包的客語としての性質を持ち合わせますので、其れに対して「以」は帰着化します。

他人を責める態度で以って自分を責めれば、自らの長短得失を知りやすくなろうとの意。


以下は和漢英語の語順を対照した図です。英語の「the thing (主語S) 詰難(V) 他人(O) with」なる連詞の代表部が「the thing」であるように、「以 詰難 他人 」なる連詞の代表部も亦た「者」なのです。もちろん文法的には「以」と「詰難他人者」との関係を客体関係と看做すことはできます。ただ原文の意はそうではないと謂うのみであります。

「者」が「the thing」であるというのは便宜上のことでありまして、漢文の「者」は形式名詞です。英語の「thing」は実質を備えた「物」であり本名詞です。また日本語の「者」は形式名詞とはいえ、連体語を取りますが、漢文の「者」は連体語は取りません。よって「所以詰難他人者」などと形式副体詞の「之」から「者」へ従属することはありません。






模型名詞と模型動詞の「模型」について

模型名詞や模型動詞の話の前に、これらが感動詞とどう違うかをまず見てみましょう。

感動詞以外の品詞、即ち概念詞(名詞、動詞、副体詞、副詞)は皆文字通り概念を表します。「悲しい」や「楽しい」のような感情を表すものと雖も、そを客観して扱っておるので概念詞なのであります。自己の感情とは言え、他物の如く客観しているのです。「花」や「犬」が客観物として存在しておるように、やはり「悲しい」や「楽しい」という作用も存在しておるのです。仮に「悲しい」という感情を客観せずして、「ああ」とでもすれば、これは思念の状態を主観的に表示したことになります。この思念の状態を客観しては「悲しい」という形容詞であり、主観的に表せば「ああ」という感動詞になるのです。

明治期の心理学者、元良勇次郎博士曰く、

対象は之に対する吾人の態度によりて、或は主観となり、或は客観となるなり。 (『心理学概論』二百八十九項)

之を要するに、常に客観の状態に現るるものあり、所謂外界これなり、常に主観の状態に現るるものあり、有機感覚の如きこれなり、これ等は両極端にして、常に変化することなきものなれど、表象、欲望などの如き心的過程はこれ等の中間にありて、或は主観となり、或は客観となるものなり。(同二百九十九項)



松下文法に所謂模型名詞や模型動詞とは結局のところ名詞であり、動詞である以上、これらは主観詞(感動詞)ではなく、概念詞です。つまり、模型名詞や模型動詞の指し示すところは事物か作用かの違いであり、いずれにしましても、客観物としての対象を指すのです。偶有的性質はこれを捨象し、本質的なる性質のみを抽象し普遍的客観的に対象を指すのが概念詞なのです。そのような概括をせずに、直接具体的特殊的なる思念を客観せず主観的に表すのが主観詞です。

然るに模型名詞、模型動詞は概念詞であるとはいえ、客観的対象を指すに其の記号たる概念を以ってせず、観念の模型を以ってするためにややもすれば主観詞と混乱するかも知れませんが、主観詞のように思念の状態を表しておるわけではないのです。

●模型動詞

彼は封筒を開けて『おや』と思った。

この「おや」は「と」まで含めて模型動詞です。模型動詞の生産格(一致格の一種)です。「おや」は内より見れば感動詞でありますが、ここでは彼の驚きを主観的に表しておるのではなく、彼の驚きを客観しておるのです。「おや」という思念の状態そのものは其の時の彼にしか表しえないのです。しかし、それを客観して、且つその客観対象を抽象された概念を以って表すのではなく、具体的なる観念の声音を以ってするのです。其の時の彼の感情作用を表すに、その観念の声音を以って模型と為し直接に実物を表すのです。作用の概念は間接に表されておるのです。

模型の材料が感動詞というのみで、模型動詞そのものは彼の感情作用を客観して表しておるのです。決して彼の思念の状態を表しておるのではないのです。ただ作用を表すに模型を以ってするというだけです。


●模型名詞

子華使於齊 (論語・雍也)

【朱子註】 子華、公西赤也

論語本文の「子華」は固有名詞でして、「子華」その人を指すのです。然るに註の方の「子華」はどうかと言いますと、これは模型名詞です。「子華」その人を指すのでなく、「子華」という固有名詞を指すのです。日本語では「子華とは」「子華というものは」「子華なるものは」というようなところです。表さんとするところの実物たる客観物を抽象化された概念の記号を以って間接的に指し示すのでなしに、観念或は表象の声音を以って模型と為し直接的に示すのです。日本語の例を挙げれば以下のようなものです。

夜中のチリチリチリには全く参る。
この「チリチリチリ」は概念を以って表せば「電鈴の音」(実物たる客観物)ということでありますが、其れを表すに概念となる前の観念を以ってするのです。記憶に留まりたる聴覚の表象の模型を声音を以って象ったのです。観念を表出するには電鈴の音を口真似(模型)するしかありません。口真似や文字に表せないものは当然模型たり得ません。漢文の模型名詞の下には「者」「也者」などがあることが多いです。

也者、不可須臾離也、可離、非道也 (中庸)

この「道」がただ其の外延を指すのならば、普通名詞でありますが、ここではそうではなく、人々が「道」と謂っているその内包を指すのです。ゆえに模型名詞なのです。日本語で言えば「道というもの」を指すのです。「道というもの」を指すに、その概念を以ってせずして、観念たる声音を以ってするのです。人々が「道」と口にするその声音から概括された念をそれに対応する記号を以ってせず、直接口真似で表すのです。概念は間接に表されるも、直接には実物の観念を声音を以って表すのです。

普通名詞の「犬」は、種類を表すものですから我々が日常目にするところのあらゆる犬に通じるものでありますが、模型名詞の「犬」は「犬と云うもの」を指すのです。模型名詞を使って普通名詞が指すところと同じ「犬」を指したければ、たとえば幼児が犬を指して「わんわん」と云うが如きにします。これは犬の発声作用を表すのではなく(もしそうなら模型動詞)、犬の観念を以って間接的に犬の概念を表すのです。抽象的概念を指すに具体的観念を以ってするのです。指し示すところは同じでも、指し示し方に違いがあるのです。


心理学の書に「模範観念」と云うものありまして、聊か松下博士の模型詞を理解するに資すると思われますので以下その部分を引用しておきます。

模範観念は概念と少し違う、概念は前述の如く普通性のみを抽象したるものであって心中其の儘想像には浮かばない、唯思惟し得らるるものである。然るに模範観念と云ふものは一個の具体的表象でしかも或る一部類に属する各個が其の類たるに必要なる特殊性を凡て兼備しておることに由って、其の部類全体を代表しておるのである。 (元良勇次郎『心理学綱要』百九十三項)






老臣 木戸孝允、国家の前途を憂う「偶成」

明治元勲の一人、木戸孝允(たかよし)の漢詩。「偶成」はたまたま出来た意。

【解釈】
空気澄み渡る冬の夜、眼前一基のさびしげなる灯がゆれる、思えば維新の大業を共に成し遂げた知己の多くはもうこの世にはいない。彼ら皆己を忘れ国家の為に尽くしたものたちである。一体誰が徒に名利を得んとしたことか。我が国多年の難事は斯くの如き人物の、生命を賭した働きに由って切り抜け得た。然るに、今や朝廷の形勢も幾たびか変じ、嘗ての面影は流れ去り、人々は唯己一人の為に栄達せんことを欲し絶えて社稷を顧みること無し。我が邦の前途まことに容易ならず、国家の行く末に思いを致せば寒心に堪えず、嗚呼我が民を如何せん。

一穂寒燈照眼明、沈思黙坐無限情
囘頭知己人已遠、丈夫畢竟豈計名
世難多年萬骨枯、廟堂風色幾變更
年如流水去不返、人似草木爭春榮
邦家前路不容易、三千餘萬奈蒼生
山堂夜半夢難結、千嶽萬峯風雨聲

【語釈】

「一穂(すい)」は一基の意。灯火を数える語。「世難」は時局の困難。「萬骨枯(ばんこつかる)」は多くのものが命を落とすこと。「廟堂風色(びょうどうのふうしょく)」は朝廷の形勢。「蒼生(そうせい)」は人民。

【訓読】
一穂(すい)寒燈眼を照らして明かなり、沈思黙坐すれば無限の情、
頭を回(めぐ)らせば知己人已(すで)に遠し、丈夫畢竟(ひっきょう)豈(あ)に名を計らんや、
世難多年にして萬骨枯る、廟堂の風色幾たびか變更せん、
年は流水の如く去りて返らず、人草木に似て春栄を争ふ、
邦家の前路容易ならず、三千餘萬蒼生を奈(いかん)せん、
山堂の夜半夢結び難し、千嶽萬峯(せんがくばんほう)風雨の声

【文法】
(*)「夢難結」の「夢」は客体的提示語。「難結夢(夢を結び難し)」の客語が提示されたもの。または「字が読み難い」などの構造と同様に「夢」を「難結」に対する主語と看做すも可。嘗て国語学者の保科孝一氏などは「茶が飲みたい」の「茶が」は誤りで、「茶を」とすべきであると述べられたことがありましたが、決してそんなことはない。「たい」は形容詞語尾であり、「飲みたい」全体が自動詞なのです。「茶を飲みたい」とすれば形容詞の自然的他動(保有)の用法になります。

*これは「夢」が「難」の主語であり、、また同時に「結」の客体概念であると考えるのがよい。「難」の主語と「結」の客体とが同じため、「結」が非帰着化しておるというのです。

「千嶽萬峯風雨聲」は単に名詞を並べただけのようでありますが、仮にこれを「千嶽萬峯有風雨聲(千岳万峰に風雨の声有り)」としたならば、概念が明瞭に分解されておりますから意義を取りやすくなるわけでありますが、そうしないで観念を表すところの名詞を指示態名詞と云います。千万の山に囲まれた中に吹き荒む風雨の音を説明的に表すのでなく、直接的に読者に見せておるのです。



観念の運用―「而」の意味

「而」は一般に「しかして、しかるに、しかも」などと訓まれますが、それでは代動詞(「然」「然而」)ということになってしまいます。実質的意義をもった動詞(*)ということになってしまうのです。しかし実際にはある作用を経由して他の作用が成立するという形式的意義を表すもので、実質的意義は前語に寄生して得ます。よって「而」を分類して寄生形式動詞と謂います。

(*)徳田政信博士も『標準漢文法』を初めて読まれたときには驚いたと述べられておりますが、「而」は叙述性があるので副詞(接続詞)ではなく、動詞に分類されます。


他の作用の成立に或る作用の経由を以ってするのです。漢文ではこの経由するという形式的意義を日本語のように助辞(「て」)で表すのではなく、「為(す)」という動詞の一運用(方法格)として表すのです。漢文には語尾変化や助辞の類がありませんので、形式的意義も詞として表すのです。依拠性なる形式的意義を表すに日本語では助辞「に」を以ってし、漢文では語序、または依拠格的客語を取る単純形式動詞「乎」を以ってするのに同じです。形式的意義とは言え、彼らはそれを一つの独立した観念(詞)として扱うのです。「而」は常にこの「経由」という形式的意義しか表しませんので、格としてはいつでも「方法格(修用格の一種)」ということになります。

天道亂日月星辰不得其行 (韓愈原人)

日月星辰の其の行いを得ないことが天道の乱れることを経由して成立するのです。こういうものを「天道乱るれば(拘束格)」と読むのは意訳です。文法的には方法格の仮定的用法です。日本語の例を挙げれば、

明日は日曜ではありませんから、お節句でも学校を休んでいけませんよ。
大阪まで行っては日帰りは出来ない。


また「而」を逆接に読む場合がありますが、それも観念の運用の仕方に違いがあるわけではありません。

吾力足以舉百鈞不足以舉一羽 (孟子梁惠王上)

一枚の羽をすら持ち上げることが出来ないという作用が、百鈞もある重たいものを持ち上げることが出来るという作用を経由して成立するのです。いかにも不自然な方法を経由しておるから語勢上逆接になるというのです。文法的意義と解釈的意義を混同すべきでないことを思い出してください。


前回同様、上記はすべて事件観念の扱い方の話で、実際の事件の話ではありません。方法格は事件観念を「経由」という形式的意義を以って扱う性質上完了の意義を帯びますが、それは結果的に実際の事件の完了と一致する場合が多いと言うのみで、方法格が事件の完了を意味するというのではありません。

法場を劫して石秀二階を跳る。 (水滸伝)
林間暖酒燒紅葉 (白居易)

実際の事件は「酒を暖めて」から「紅葉を焼く」のではなく、「紅葉を焼いて」から「酒を暖める」のです。しかし、観念の扱い方として「暖酒」を経由して、「燒紅葉」が成立しておるのです。まず「酒を暖めん」との観念が頭に発生し、それを後ろに送って「紅葉を焼く」の観念が来るのです。


依拠性動詞と非依拠性動詞

前回、帰着性の一つである他動性について述べました。今回はこれまた帰着性の一つである依拠性について述べていきます。が、その前に他動性についての補足をしておきましょう。

「出る」という動詞は本性としては出発性(これも帰着性の一つ)の動詞ですから、出発性の客語、すなわち「~より」という客語をとります。たとえば、「門より出る」などとなるわけです。「門より」が出発格の客語で、「出る」がそれに対する帰着語で出発性の動詞です。然るに、「出る」は他動的に用いることも出来ます。「門を出る」などがそれです。この「出る」はここでは他動性の動詞です。他動性には四つの形式的意義(処置、保有、使用、生産)がありましたが、これはそのうちの「使用」に当たります。「使用」なる形式的意義を利用しておるのです。出るに門を使用するのです。この形式的意義を利用したものを古文に求めれば以下のようなものがあります。

舟のうちをなむせめて見る (竹取物語) 

解釈としては「舟のうちより見る」で良いにしても、そのような解釈の由って来るところは何処なるかといえば、他動性の「使用」なる形式的意義なのです。すなわち、「見るに舟のうちを使用する」のです。この文法的直訳ありて後、「舟のうちより見る」という出発性に転換した解釈ができるのです。「を」に「より」の意義があるのではないのです。形式的意義と解釈的意義とを混同してはならんのです。(『改撰 標準日本文法』六七二項)


それでは依拠性についてみていきましょう。

図1、依拠性の形式的意義。


依拠性の動詞は、事物の作用が客体に依拠して行われる形式において事件観念を統合したものです。作用の観念が客体にぶつかってゆくところから、付加、進行、依拠の形式的意義が出てくるのです。「東京に行く」と言えば進行ですし、「英語に数学が得意だ」といえば、この「数学」は付加的に運用されたところの名詞ですから、付加する先としての客語を取るのです。「英語に加えて数学が得意だ」というのに同じです。作用が依拠物に向かって進行することから、依拠物を目的物として看做すこともできるようになります。「此の書は会話の練習に善し」、「これは旅行に便なり」、「Rice is good to eat.(善於食らふに善し)」などがそれです。「会話の練習に対して善し」というに同じです。無論このように言い換えたあとの「善し」は非依拠化しております。


また依拠物に進行しきった結果に重きを置けば、作用観念が依拠物に乗っかっておるところから存在や原因(発生)の形式的意義が出てきます。「東京に居る」(存在)、「地震に驚く」(原因)、「I was startled to hear that noise.(驚於聞其音聞くに驚く)」などです。下図(図2)のようなイメージです。「驚く」という事物の作用は「地震」なる依拠物に依拠して行われるのです。「驚く」は「地震」において発生するのです。以って「原因」なる形式的意義を帯びるに至るのです。存在も原因も静止的、非進行的に事件観念を扱ったものです。依拠性動詞には進行的のものと、非進行的(静止的)のものとがあるということになります。

前回も何度か申したことでありますが、今話しておる事柄は実際の事件のことではなく、事件観念の扱い方であることに注意してください。「地震に郊外へ逃げる」と言えば、「逃げる」という実際の事件は確かに進行的でありますが、「逃げる」が「地震」に対する事件観念の関係は進行的ではなく、原因(発生)的なのです。「逃げる」の「郊外」に対する関係は進行的です。

(図2)非進行的依拠性。


斯くの如き依拠性なるもののみを一種の作用として考えるようになれば、「依拠性」という純粋な形式的意義をのみ持つ動詞になります。それがすなわち「((に)おいてす)」です。松下文法に所謂「単純形式動詞」です。「於、于」も単純形式動詞としての用法がありますが、本性としての単純形式動詞は「乎」のみです。




前回、他動性が強引に他物の作用を自己に引っ張り込む場合に使動性を帯びることを述べましたが、使動そのものは本性としては依拠性でありまして、その動作は原動の主体(すなわち使動の客体)に依拠して行われるものです。ただ他動的にも扱いうるというわけです。「下女を使いに行かしむ」といえば、他動的な使動で、「下女に使いに行かしむ」と言えば、依拠的な使動です。「下女を」「下女に」を原動(行く)の主体(使動の客体)といいます。

依拠性は作用が他物に対して付加的、進行的、依拠的であるという形式に於いて運用されたものでありますから、他物の作用を促す意義も自然と出てくるのです。イメージとしては下図のようなものです。

作用の観念が依拠物にぶつかって、その勢いで依拠物が動いておるのです。「下女に使いに行かしむ」は「下女」に「使いに行かしむ」なる作用がぶつかって原動の主(下女)の動作を促しておるのです。依拠的使動は原動主の人格を認めたところの動作です。「人に骨折らせる」「娘に琴を習わせる」いずれも原動の主の勢力を認めております。よって「雨を降らす」「花を咲かせる」はおかしくありませんが、「雨に降らす」「花に咲かせる」はおかしく聞こえるのです。「雨」や「花」が意志体として扱われておるから奇異に感ぜられるのです。「雨を降らす」(他動的使動)なら「雨」の作用を単に使役の材料として使用する形式に於いて観念を統合することになります。雨の作用は他の主体の作用に同化せしめられておるのです。だからおかしく聞こえないのです。

依拠物が勢力を持つような場合は、それにぶつかったところで跳ね返されてしまいます。このような観念の扱い方から人格的被動(賊に殺される)や可能的被動(あんな大工に家が建てられるか)、文語文法でいうところの自発や尊敬の意義も出てくるのです。


「子供が犬に噛まれる」と言えば、「噛まれる」なる作用が依拠物である「犬」にぶつかり結果的にそこから利害を受けておるのです。そういう形式において観念を扱うから依拠性なのです。事物の作用がある客体から出てくるとしての形式において観念を扱えば、たとい被動といえども依拠的にではなく、出発的な形式に於いて表されるのです。すなわち「女房や娘から馬鹿にされる」と。「馬鹿にされる」という事件観念は「女房や娘」から出発しておるのです。漢文では出発性も依拠性として扱われます。

即不幸而不此病、政安遷之 (韓非子十過)

日本語では「起」と「此病」との関係を出発性に直して「此の病より起つ」として事件観念を扱いますが、漢文そのものはどこまでも依拠性なのです。「此の病に起つ」です。「起つ」が「此病」に依拠して行われるのです。我々が出発的に扱うものを彼らは依拠的に扱うのです。

比較態を表すに我々は出発性(~より)を利用しますが、彼らはここでも依拠性を利用するのです。

罪莫大於不孝 (孝經)

「大」なる比較的概念が「不孝」に依拠的に考えられておるのです。日本語では「不孝より大なるもの莫し」と出発性に転換して考えるも、漢文そのものはどこまでも依拠性を利用したところの比較態なのです。「大」なることが「不孝」より出発するのでなく、「大」が「不孝」にぶつかっていっておるのです。「大」は「不孝」に依拠して発生するのです。


「此の本は子供にも読める(読まれる)」といいますのも、やはり被動の一種です。被動の一種でありますが、意味するところは依拠物(子供)、つまり被動の客体の可能です。被動の形式的意義を利用して能否を表すのです。「読まれる」のは「本」でありますが、この文は「本」の被動の形式を以って、その実「子供」の可能を表しております。「事物の作用」は「依拠物」より動作を受けるわけでありますから、依拠物のほうにそれだけの勢力が無ければならない。その勢力に人格を認めて事件観念を扱ったときには、このように同一事件でも甲の被動ではなく、乙の可能を表すようになるのです。

利害被動は、被動の主に人格を認め、可能の被動は、被動の客に人格を認めるのです。

ただ主客ともに人である場合には、一体いずれに人格(意志)が認められておるのかがはっきりしなくなるのです。仮に「彼の男は君には投げられまい」という文を例に取りますと二通りに解せられる。

(利害被動の場合)彼恐不被君僵 (彼恐らく君に僵(たお)されず)
(可能被動の場合)君恐不能僵彼 (君恐らく彼を僵す能はず)

主体に人格を認めるか、客体に人格を認めるかで、このようにどちらにも聞こえるのです。


被動態が尊称の意義を帯びる理由を松下博士はこうおっしゃる。

他人の動作を受ける意味から貴人の動作を忝く頂戴する意味になるからである。

尊称の意義も被動に由来するといえども、一たび尊称の意を帯びたのならばそれはもう被動ではありません。すなわち被動の客体は無いのです。「お嬢様が洋琴を弾かれる」といえば、その家の下男がお嬢様に「弾く」という動作を被るという被動を利用するのみで、連詞の出来上がった結果としては尊称であり被動ではないのです。由って、被動の主体も客体も無いのです。「弾かれる」の「弾く」も「れる」も既に「お嬢様」一人の動作となっておるのです。被動なら原動「弾く」の主体は「お嬢様」で、被動「れる」の主体は「下男」ということになります。

次に文語文法に謂う自発、松下文法に謂う「自然の被動」を見ましょう。自発もやはり被動の一種なのです。

子供の行く末が案じられる
泣くまいと思っても泣ける

依拠物、すなわち被動の客体に注意が向けられないところの被動です。「案じられる」の被動の客体は親である「私」でありますが、「親」の意志的動作ではなく、自然的動作(無意志的動作)なのです。自発、すなわち「自然の被動」は原動(案じ)の無意志的動作ですから、被動の客体は用いないのです。依拠性の対手はないのです。下図のように依拠物なしに動作を被るところから自発(自然の被動)の意義が出るのです。


それでは、最後に「商人被賊殺(商人が賊に殺さる)」、「商人見殺於賊(商人が賊に殺さる)」の観念連合の仕方を図で以って示しておきます。

●「商人被賊殺
図の見方はまず左上から見ます。「被賊(賊に被る)」の連詞は依拠的関係より成ります。商人の作用である「被」が「賊」にぶつかっていっておるのです。こ うして出来上がった「被賊」(甲)なる観念は次に他動性を以って「殺」なる観念を自己(商人)の動作の材料に引っ張り込むのです。「被」は「賊」において発生し、続いて「殺」を自己の作用(被賊)に同化するのです。「賊にせられる(被賊)」なる観念が他動的に「殺」を統合するのです。「殺」なる作用は、最終的に 「商人」の作用に同化せしめられ、商人の動作の材料になるのです。「殺」を遇するに「被賊」を以ってするのです。「被」は被動の客体(賊)に対しては依拠的で、原動(殺)に対しては他動的なのです。



●「商人見殺於賊
「商人被賊殺」と異なるのは、「見」は動作(殺)に対して依拠的である点です。「被」は人に対しては依拠的ですが、動作に対しては他動的です。「見」は人に対して直接依拠することはできませんので、一旦前置詞性動詞「於」に対して実質的に従属し、その後前置詞性動詞の帰着性を以って「賊」に対して依拠的に帰着します。日本語の「殺される」は全体で一詞でありますが、漢文ではそれを連詞にして「」と他動的に表し、もしくは「」と依拠的に表すのです。意味は同じでも事件観念の扱い方が異なるのでありますから、当然形式的意義もまた異なるのです。




他動詞、自動詞について

動詞には自動、他動の別がありますが、其の区別は何にあるのかを考えていきます。自動詞といいますのは、他動性でない動詞を指して言いますので、我々はここでは他動性について研究してみます。他動性なるものが明らかになればそれ以外を自動性動詞と考えればよいのです。


●他動性の形式的意義

松下大三郎博士曰く、

文法学は形式の学である。

この言葉は松下博士の文法理論を貫く思想であり非常に重要なところを意味しているように思われますが、奈何せん難解であります。これだけではよくわからない。松下博士最晩年の直門であります徳田政信博士は、このことを解説して以下のようにおっしゃる。

思念(観念)運用の音韻記号化したものを、文法的形態と呼ぶのである。言語運用の抽象形式とも、形式意義とも謂っているのはこれを指す。

文法は形式の学であるとは、このような抽象的形式性(観念運用の)を謂うのである。

実質的意義、すなわち辞書的意義や解釈的意義と、文法的意義とを混同しては、文法学は成り立たない。

これでもまだまだ難しいのでありますが、私なりに簡単に言い換えればこういうことだと思う。つまり、我々が日常使う言葉は当然具体的状況に即して使われるのでありますから、具体的特殊的な意義を帯びております。これが解釈であります。しかし、文法学が扱うのはこのような具体的意義や解釈ではなく、それらの由って来るところだというのです。では、それは何かといえば形式的意義であります。たとえば、「酒を飲む」も「京都を行く」も「空を飛ぶ」もこれすべて他動性の動詞なのですが、それは「~を」という格を取るからと云う理由ではなしに、いずれも作用の観念が他物の作用を自己の作用の材料に取り入れるとしての形式に於いて事件観念を扱っておるから他動だというのです。「酒を飲む」の「飲む」は無論他動であるが、「飲酒する」も同じ意味なのであるから他動である、などと考えないでください。それは実際の事件の研究であります。大事なのは実際の事件ではなく、我々がいかに事件観念を扱うかの扱い方です。観念連合の形式であります。同一事件でもその事件観念の扱い方が異なれば、形式的意義もまた変わるのです。自動か他動かは、実際の事件の自動他動ではなく、事件観念の扱い方の自動他動なのです。「酒を飲む」も「京都を行く」も「空を飛ぶ」も全て抽象的、形式的意義(この場合は処置や使用)の利用によって具体的意義を生じるのです。解釈は形式的意義の利用より生じるのであり、我々が研究するのは表面に現れておる意義ではなく、その淵源である形式的意義であるというのです。

以下の図は「他動性」なるものの形式的意義をわかりやすく表現しようと作成したもので、この試みがうまくいっておるかどうかは皆様の判断に委ねます。

(図1)他動性が事件観念を扱う扱い方。

「賊が商人を殺す」という文を例に取れば、「殺す」が事物(賊)の作用で、「商人」がその作用の客語で特別の材料です。他動性とは上図にもありますように、事物の作用に他物の作用を引っ張り込み、消化し、同化せしめ、最終的に自己の作用の材料にしてしまうという性質のものです。このような形式的意義が根本にありまして、ここから「処置」「保有(*)」「使用(*)」「生産(*)」の四つの意義が出てくるのであります。一般的には他動詞といいますと、他物を処置するものであるとのみ説かれますが、それ以外にも三つの意義があることを覚えておいて下さい。

(*)「保有」は「月を清み」の「清み」、「我有父母」の「有」の類。
(*)「使用」は「川を渡る」の「渡る」の類。
(*)「穴を掘る」の「掘る」の類。土を掘って穴をつくるのです。

ちなみに、「賊が商人を殺す」の「殺す」は当然「商人」に対して他動性動詞でありますが、その客観的事件を他動的ではなく、自動的に表現することもできるのです。すなわち、「商人が賊に死ぬ」と。これは自動と他動とで詞が異なりますが、「本が出る」と「本を出す」のように活用の仕方が異なるだけのものもあります。いずれにしましても、実際の事件に自動他動の区別があるのではなく、我々がその事件観念を如何に扱うかのその扱い方こそが自動他動の分かれる所以であることがこれで推知できましょう。事件観念の扱い方、すなわち観念連合の形式は連詞の統合関係に直結する問題ですから忽せにはできないのです。

もう一つ例を見ましょう。「子供が学校へ這入る」といえば、この「這入る」は自動性動詞でありますが、「親が子供を学校へ入れる」といえば、この「入れる」は「子供」に対して他動性動詞となります。これが他動であるというのは「入れる」という親の作用が子供の「這入る」という作用を自己の動作に同化し自らの動作の材料に供用しておるからそう謂うのです。実際に勉強して学校に入ったのは子供の努力に因るにせよ、その子供の動作をすべて親の動作に引っ張り込み自らの動作に同化せしめておるわけです。「入れる」という作用が「子供」の作用を自らに引っ張りこんでおるのです。これが他動の形式的意義です。これが所謂「処置」というものです。

(図2)他物の作用を自己に引っ張り込むことは、自ずから保有の意を帯びる。下図は事物の作用が材料を保有しておる図。


他物の作用を引っ張り込み、自己の所有に帰するところから、処置なり保有なりの意味が出てくるのでありますが、その「保有」なる形式的意義を利用したのが下のような例です。

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
夜を寒み置く初霜をはらひつつ草の枕にあまた旅寝ぬ

これらは他動性を帯びた形容詞でありまして、学校ではこのような形容詞の語幹に「み」がついた場合は「~ので」の意である、などと習いましょうが、それは解釈でありまして、そのような解釈が由って出てくるところはどこかといえば、上述したようにこれは保有なる形式的意義を利用したものといえるのです。「早い」という滝川の作用が「瀬」の作用を自己に引っ張り込み保有しておるのです。文法的直訳をすれば、「滝川が瀬を急速的状態に持って」の意です。文法的に申せば、この「み」は形容詞の自然的他動の方法格です。「~ので」の「で」は「にて」の意でやはり方法格。自然的他動は自動と異形同義でありますから、「瀬を早み」は「瀬が早くて」と置き換えて読むも可。

体言を客語に取る処置の例として以下のようなものがあります。

萩が花散るらむ小野の露霜に濡れてをゆかむ小夜はふくとも

「濡れてをゆかむ」は単に「濡れてゆこう」ではなく、「濡れて」なる実質化した動詞の方法格を客語として処置しておるのです。「ゆかむ」なる作用が「濡れて」を自己の作用の材料に同化せしめておるのです。意義解釈としては「濡れてゆこう」でよくとも、そのような解釈が由って出てくるところは「処置」なる形式的意義の利用にあり、文法的には「濡れてを致してゆこう」「『濡れて』を遇するに『行く』を以ってせん」と解すべきものです。斯くの如き抽象的意義、文法的直訳あって後、解釈があるのです。松下博士曰く、

「を」を感動の助辞とのみ説いては「を」の意味は分からない。


また「処置」につきましては、上記のような普通の処置ではなく、予想を裏切るような扱いにおける処置、凌辱的なる扱いにおける処置というものもありますが、いずれも「処置」なる形式的意義の利用です。たとえば、

雨降れど露も洩らじを笠取の山はいかでかもみぢそめけむ

太線の概念が下線の概念を引っ張り込み処置するに凌辱的にするのです。「洩らないだろうこと」を遇するに、「どうして紅葉に色づいたろう」を以ってするのです。このような形式的意義の利用があって後、「~のに」の意味が出てくるのです。この「を」をはじめから逆説的な意味であると考えるべきではありません。形式的意義の一運用に過ぎないのです。「大学院まで出たものを車夫をやっておる」と言えば、「大学院まで出たという事実」を遇するに「車夫をやっておる」という反予期的事実を以ってするのです。而してのちに「大学院まで出たのに車夫をやっておる」の解釈に至るのです。


さらに引っ張り込み方が激しい場合には、使動の意を帯びます。




(ある主体が)子供を笑わせる。(漢訳: (ある主体が)使子供笑)

果たして「子供を笑わせる」は他動か、使動(所謂使役)か。これも実際の事件を考えるのではなく、事件観念の扱い方を考えるのです。「笑わせる」なる事物の作用が「子供」の作用を自己に引っ張り込み自分の作用に同化せしめてしまう点は確かに他動なのです。ただその引き付け方、引っ張り込み方が強引なのです。客観的事件としては、子供が笑うにしましても、その子供の作用を他の主体である事物の作用が強引に自らの方に引っ張りこみ、自らの作用に同化せしめてしまう形式において事件観念を扱っておるのです。その点において確かに使動性を帯びるのです。

国語学者、大野晋氏は他動と使役とについてこういいます。

たとえば「滝の歌詠ます」という場合の「詠ます」は、自分で詠むのではなくだれかに詠ませるので使役です。しかし、この「詠ます」という形は「出だす、暮らす、果たす、起こす、落とす」という他動詞と同じく、他に働きかけるという意味を含みます。ですから要するに「す」が付くと他に働きかけるわけで、それが単に他のものに働きかける意味の動詞でもよく(つまり他動詞)、他人に動作をさせる意味でもよい(つまり使役)。その二つは他に影響を及ぼすという点で共通です。

「自分で詠むのではなくだれかに詠ませるので使役です」という記述は、実際の事件における自動他動の区別のことをおっしゃっておるにせよ(*)、他動と使動(使役)とはその内包に於いて共通する部分があると云う点では同じようです。

(*)実際の事件が問題ではないのです。事件観念の扱い方が問題なのです。ここまでの話はすべて実際の事件の話ではなく、すべて事件観念の扱い方の話です。嘗て「犬が子供に喰らい附く」の「喰らい附く」は「子供」を「処置」するから他動性動詞であると説いた学者が居ったそうでありますが、それは実際の事件と事件観念の扱い方との区別を混同したためであります。「子供に喰らい附く」の「喰らい附く」は他動性ではなく、事件観念を依拠的に考えて統合したものです。


この図のように事物(犬)の作用(喰らい附く)が依拠物(子供)に進行してぶつかってゆくものとしての形式において事件観念を扱ったものなのです。付加的、進行的、依拠的な形式的意義が出てくる所以です。このような形式的意義ある動詞であるために、このような動詞を依拠性動詞と呼ぶのです。決して子供の作用を自己(犬)の作用に引っ張り込み同化せしめんとするの形式において事件観念を扱ったものではないのです。



「す」「さす」は、他動性に強引さが加わり使動性を帯び、使動性は貴人が何でも人にやらせるところから尊称の意を帯びるようになるのです。

(追記)他動と使動との使い分けについての例文

水を浴びさせても浴びず候はば浴び候へ (水戸烈公書簡)



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