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複性詞「所」を用いた被動 (仮)

複性詞「所」を用いた被動とは以下のごときものであります。

申徒狄諫而不聽、負石自投於河、魚鼈食 (荘子盜跖)
義經幼孤、從母逃匿、流寓諸國、氓隸役 (日本外史)

「~のV(動詞)する所と為る」と訓み、解釈として被動(松下文法に所謂准被動)を表しております。「賊の殺す所と為る(為賊(之)所殺)」と言えば、「賊に殺される」わけであります。この「所」には何等不審な点はありません。典型的な複性詞であります。文法的直訳をすれば、「賊のソレヲ(副詞的)殺す所のソレと(名詞的)為る」となります。「所」という一詞に直接の統合関係なき副詞的、名詞的という複数の性能を含んでおるので複性詞といいます。然るに以下の如きものがあります。


時輩所見推許 (韓愈潮州刺史謝上表)
臣昔所見交接 (三國志)

今回の題目はこれであります。「時輩」を「為」に対する依拠格的客語とし、「所」を上記で見たように複性詞として解して文法的直訳をすれば、「時輩に(依拠して)ソレニ推許せらるる所のソレと為る」と読むことになり、「ソレ」は被動の客体、すなわち原動の主体(時輩)ということになってしまうのです。これでは解釈上おかしい。そこでこの「所」の用法が問題になるのです。塚本哲三氏はこれを訓じて「實に時輩の為に推許せらる、とするほかあるまい」とおっしゃっております(『漢文解釈法』六百七十一項)。



西田太一郎氏の『漢文の語法』(二百二十八項)に呂叔湘の説として以下の如き記述が有ります。如何にして「為~所見~」の形が出来たかに附いての部分を引用します。

呂叔湘によると、被動の形式の「甲 見 V 於 乙」、「甲 為 乙 所 V」(Vは動詞)が一つになって「甲 為 乙 所 見 V」が出来たが云々
「甲」は被動の主体。「乙」は被動の客体。
「甲 見 V 於 乙」は「甲が乙にVせらる」と訓み、「甲 為 乙 所 V」は「甲が乙のVする所と為る」と訓みます。前者は純粋な被動で、後者は准被動です。上記の文例で「時輩」を「時輩に」と依拠格的に読んだのは、この呂叔湘の説の「乙」の変遷と矛盾しておらないことに注意してください。すなわち「乙」は原動の主体ではありますが、同時に被動の客体であります。





問題は「
甲 為 乙 所 見 V」であります。この「所」をばどう致しますか。「見」が無ければ唯の「為~所~」の形に過ぎないわけでありますが、これにはあるのです。無くても被動の意味を表しうるのに、さらに被動の形式動詞である「見」を加えておるのです。西田氏はこれを解して

「為~所~」をより被動らしくするために考えられた新しい形式である。これらは文章全体で被動になっているので、どの字が「に」に当たり、どの字が「らる」に当たると特定できるものではないが、訓読の便宜上右のようによんでおく。 (『漢文の語法』二百二十三項)

と述べておられます。「便宜上右のようによんでおく」というのは、たとえば「
臣昔為曹氏所見交接」の例で言えば、「臣昔曹氏に交接せらる」と全体で被動に読んでおるわけです。「為」も「所」も「見」も全体で被動調を為すものとして解説されておるのみです。我々はもう少し文法的な方面からこの構造を勉強していきたいわけでありますが、松下博士の説明をみる前に劉復氏の説が参考になりましょうから、それをここに載せておきます。

劉復氏は「大官大邑、身之也」(大官大邑は身の庇はるるなり)を分析してこう述べておられます。
我々は今や、この種の「所」の字が副詞であって「於彼」の意味(「於」は介詞、「彼」は代詞である。しかし、「彼」の字は静性代字であり、「所」の字に含まれている一つの代詞は静性ではなくて関接性であるため、我々はそれに相当する字を見出さないから、無理はあるが「彼」の字を代用するのである)であり、英語に於ける「where」が其の内に「in that place」と云ふ義を持っているのと比較することができる。

(原句)   大官大邑 身 之 所 
(比証一) 
大官大邑 身  於 彼 
比証二) 大官大邑 where 身 

(下線部「庇」は皆被動態にあり)

これは松下博士の複性詞「所」の説明に髣髴たるものがありますので、以下比較のために引用しておきます。
「所」は複性詞であって同じ概念が二様に運用されるのであるから、之を二面に分けて一面を副詞部とし一面を名詞部として論ずべきである。「所」の有する副詞部は常に客語的である。主語的ではない。日本語で言へば、「其れを」「其処を」或は「其れに」「其処に」である。 (『標準漢文法』四百十二項)
劉復氏の論考は未だ体系的でないと雖も、「所」に名詞的でなく副詞的たる内包的客語の性能のあることを看破しておられる。松下博士は「所」の性質を全く直接の統合関係のない二性能が一詞化し、而も間接的には関係することになる複性詞という概念でもってよく統一的に説いておられるのです。


話が長くなりましたが、ここから愈々「為~所見~」の「所」についての結論に至ります。

複性詞「所」には「単性化」(四百十四項)という用法がありまして、複性のうちの一方の性質、すなわち名詞的性能のほうが無効になるものがあるのです。先に挙げた「實為時輩見推許」の「所」などは文法的には単性化したものと考えるとよいと思う。その場合、「所見V」は「為」に対して生産格的客語で、動詞のまま客語になります。「ソレニVせらるる状態と為る」とでも考えればよい。内包的客語たる「所」は被動の客体(原動の主体)を指しておるのです。そして其の被動の客体(原動の主体)というのは「為」の依拠格的客語(上の例で言えば「時輩」)なのでありますから、結局「所」は無くてもよい。また「見」など無くても、動詞だけで被動態たりうるのですから「見」も無くてよい。「為」だけでよい。以下皆「為」だけでよく被動を表しております。

此乃言之所以陛下禽也 (史記・淮陰侯列傳) ⇒ 「為陛下所見禽」
越王禽三渚之浦 (同春申君列傳) ⇒ 「為越王所見三渚之浦」
彼伍胥父兄戮於楚 (同伍子胥列) ⇒ 「為楚所見戮」(「楚」を被動の客体と看做した場合)


「大官大邑、身之所庇也」を上記に則って読み下せば、「大官大邑は、身のソレニ庇はるる所のソレ」となります。これは単性化したものではありません。また「ソレ」が「大官大邑」を指すことは無論であります。


身為大官大邑所見庇也


こうすれば「所」は単性化します。「身は大官大邑にソレに庇はるる状態と為る」ということです。




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