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可能的被動

またネットを検索しておったら興味深い記事を見つけました。そこではセンター試験追試の問題を例に漢文法の解説を試みられておるのでありますが、それを読んで少しく発明するところがありましたので、簡単に書きとめておきます。おもに国文法についてであります。

それにしましても、下に示してありますように、なかなかに微妙な選択肢がそろっております。

「使李杜諸公復起、孰以予為可教也」の解釈を問うもので、以下の如き選択肢が与えられておる。

(1)仮に李白・杜甫やその他の詩人がもう一度現れたとしても、だれも私に教えることができないだろう。
(2)李白・杜甫やその他の詩人にもう一度詩を盛んにさせても、だれも私が教えられるとは思わないだろう。
(3)仮に李白・杜甫やその他の詩人がもう一度現れたとしても、だれにも私は教えることができないだろう。
(4)李白・杜甫やその他の詩人にもう一度詩を盛んにさせても、だれにも私は教えることができないだろう。
(5)仮に李白・杜甫やその他の詩人がもう一度現れたとしても、だれも私が教えられるとは思わないだろう。

まず(2)の選択肢を見ていただきたい。それも後半部であります。((5)も同じ)

たとえば、「私は彼に何度もだまされているから、もう彼のことが信ぜられない」と言った場合、この「彼のことが信ぜられない」とはどういう意味でありましょうか。こういうのを可能的被動というのでありますが、書き改めますと、「彼のことを信ずることが出来ない」というふうになります。「彼のことが」という主語は、「彼のことを」という客語に置き換わるのです。原文は「彼のことが(私に)信ぜられない」の如く、形式上被動でありますが、実質的には「私」の可能不能を表しておる。ゆえに、可能的被動というのです。文法学は形式の学でありますから、実質ではなく形式を重んじます。為に被動的可能ではなく、可能的被動というのです。

書き改めた方の文では、「(私は)彼のことを信ずることが出来ない」、漢訳すれば「我不彼能信」のように「我」の不可能を表しておることが明瞭となります。もう一つ例を挙げれば、盗人が「俺が捕まえられるか」と云えば、「俺を捕まえることが出来るか」の意となるなどであります。

それではここで再び(2)の選択肢を見ていただきたいのでありますが、この「私が教えられる」を今見ましたように書き改めますとこうなる、

私を教えることが出来る (漢訳すれば能教我または我可教)

*(注)「可教我」でないことに注意(こうすると「可」に対して他に主語があることになる)。(例)馬陵道陜、而旁多阻隘、可伏兵 (⇔ 孺子可教矣(お前はなかなか見込みがあるから、教えるに足るの意) と要比較)

「可、足、難、易」などはその主語と、下の内包的客語(要するに動詞)の客語が同じである場合は客語のほうが非帰着化するのです。英語と比較すればよく分かる。

「此書難讀」(此の書、読むに難し)
This book is difficult to read. (此の書、読むに難し) 「is difficult」の主語と「read」の客語が同じであるため、「read」が非帰着化しておる。

と。ここに於いて(1)の選択肢とこの文(だれも私を教えることが出来るとは思わないだろう)を比較していただきたい。(1)の選択肢は「私に」であるが、全体としてよく似た選択肢になる。この区別は相当微妙なもののような気がしますが、答えは(1)ということだそうであります。(1)の選択肢のみ「私に」と明らかな客格で、それ以外はちょっと分析を要する。ちなみに原文を直訳的に読み下しますと、「孰(たれ)か予を以って教ふるに可なりと為さんや」となります。結局の意義は反転しております。

あるいは(2)の選択肢の「私が教えられる」の「私が」は、「彼がフランス語が教えられる」「此の子が難しい本が読める(読まれる)」などの「彼が」「此の子が」に相当するもの、すなわち小主語ではなく大主語として作者は用いておるのかも知れない。その場合「私」は「教える」という原動の客体ではなく、主体になりますから、(1)の選択肢とはっきり区別することができるようになります。「俺が捕まえられるか」も盗人の言葉ではなく、取り締まる側の人間の言葉として解されることになる。すなわち、「俺が(大主語)盗人が(小主語)捕まえられるか」の意。「盗人が俺に捕まえられるか」に同じ。「俺」は「捕まえる」の主体であり、客体ではありません。(2)の選択肢をこのように解すれば、この選択肢が誤りであることははっきりします。なぜならば、「私」が原動「教える」の主体ということは、原文の「予」(第一人称)が原動「教」の客体であることと矛盾するからであります。

要しますに選択肢の中で、「私」が「教」の客体として解されておらないものは、これは誤りなのです。然るに、選択肢のうち明確に客格であることが分かるのは(1)のみで、それ以外は若干の分析を要するということです。


残りの選択肢も意義明瞭とは云えない。(3)(4)の選択肢の後半「だれにも私は教えることができないだろう」も、純粋にこの文だけを見れば、解釈は曖昧になってくる。つまり「私は」は題目であるから、「教えることができないだろう」に対してどのような関係であるか動作詞に対する格が不明瞭であります。たとえば、「私は物理学の大家であるからして、教師であろうが研究者であろうが、だれにも私は教えることができない」といえば、この「私は」は「私をば」の意となります。お前ら如きに、私が教えられるものかの意となる。

また、「嘗て教育者としてあるまじき行為をしてしまったのだから、だれにも私は教えることができない」といえば、この「私は」は「私が」の提示語であります。「私が」と「私を」とではまったく異なるわけでありますが、(3)(4)の選択肢の意味は「私が」の意であることは分かるのです。なんとなれば、この「私は」を客体と看做しますと(1)の選択肢と同じになってしまう。特に(3)は前半部も(1)と同じでありますから、大差ない選択肢が二つ存在することになってしまうのです。尚且つ、(1)の「私に」は客格としか解しようがありませんので、(3)の選択肢の「私は」を主体の提示とするのです。而して(3)の「私は」が主体の提示なら、(4)の「私は」も主体であろうことが推測できます。なにしろまったく同じ表現形式なのですから、一方は「主体」で、他方は「客体」を表すなどということは不自然でありましょう。




最後に上記に述べた紛らわしい解釈を並べ示して置きます。

(1)だれも私に教えることができないだろう。
(注)これとても「李白杜甫のごとき詩人が再び現れたとしても、(皆偉大な詩人であるから)だれをも教えることが私にできないであろう」の意でないとどうして言えるか。この意味に考えれば、「私」は再び原動「教える」の主体となる。嗚呼。



(2)(5)だれも私が教えられるとは思わないだろう。 ⇒ だれも私を教えることが出来るとは思わないだろう
(3)(4)だれにも私は教えることができないだろう。 ⇒ だれにも私をば教えることが出来ないだろう

【参考】
松下大三郎 『標準日本口語法』百六十一項(可能の被動)



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