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より一般的に修用関係を考える

さきに『戯論文法 「曰く、謂へらく、憾むらくなど(帰着性従属的用法)」 』に於いて、帰着性従属の修用語としての被修用語に対する用法の如何を論じましたが、あれは考えてみれば、なにも帰着性従属に於いてのみの話ではなく、もっと一般化して論じることができるものであるわけであります。帰着性従属に於いて論じたことは簡単に言えばこういうことです。たとえば、「曰」と云えば、この「曰」はもともと生産性に対する客語すなわち「~と」という客語を欲します。「長男曰太郎、次男曰次郎」といえば、「長男を太郎と曰ひ、次男を次郎と曰ふ」の如きであります。しかし、帰着性従属的用法になりますと、「子曰色難(子曰く、色難し)」のように「曰」は帰着語として自身に欠けている客語を統率するのではなく、却って修用語として自身の客体概念に従属していくことになります。とはいえ、「曰」は元来の性質として生産性であり、生産格的客語を前提としておりますから、「色難」というのは「曰」の帰着性に対してもはや客語ではないにしろ、客体概念であるとは言える、よってこれを客体的統率語と名づけたわけであります。今例として特に帰着性の一つである「生産性」を挙げたまでで、さきの記事では、このことが帰着性全般に言えることである、とまあそういう内容のことを憚らずも述べ立てたのであります。然るに、そのときには気づきませんでしたが、これはそもそも帰着性にのみ止まる事ではありません。さきの記事の内容は至らざるところ無きまでには議論を突き詰めてはいなかったのです。

今回は前回の議論をさらに一般化してみようというのです。すなわち、主体的提示語であろうが、客体的提示語であろうが、実質的提示語であろうが、属性的提示語であろうが、みな先の記事の理屈が適用できるのです。これらいづれも連用格の提示されたもので、修用語でありまして、其のうち属性的提示語以外はもと補充性の概念です。属性的提示語は端から修飾性の連用語です。

帰着性従属語 ⇔ 客体的統率語
主体的提示語 ⇔ 叙述的被修用語
客体的提示語 ⇔ 帰着的被修用語
実質的提示語 ⇔ 形式的被修用語
属性的提示語 ⇔ もとから修用関係にありますから、名付け難し

属性的提示語を除いては、皆もと補充語でありますから、一旦実質化して修飾語になったにせよ、絶対化したというわけではないのです。よって各々の統率語は其の相対性の絶対化に資するところの被修用語なのです。「酒は飲まない」と云えば、この「酒は」には「酒を」という客体的性質が含まれており、「飲まない」には「酒を」に対応する帰着性が含まれておるのです。ただそれが提示のために非帰着化したというまでです。

主体的提示語というのは、主体概念が提示されたものであります。提示されずに主体を主体として表した場合には、主語です。主語は補充性の連用語で叙述語に対するものです。しかし、提示されますと、主体的提示語となりもはや主語ではない。提示前は補充語であったにせよ、提示されれば修飾語です。ここからが重要でありますが、提示前に叙述語であったものは主体が提示された後は、被修用語になる、なるにはなりますが、やはり主体に対する叙述であります。叙述語ではないにせよ、叙述概念であります。主体的提示語も主語ではないにせよ、主体概念を含むものです。その意味において相対関係が無いとは言えない。「私は酒を飲む」と云えば、「私は」は主体的提示語でありまして、「酒を飲む」は被修用語であります。「酒を飲む」は被修用語ではありますが、同時に主体についての叙述を含むものです。松下博士はこの被修用語には殊更に名を付けておりませんが、名づければ叙述的被修用語です。こうすれば主体的修用語という術語とよく対応します。

今主体的提示語を以って話を進めましたが、これは客体的提示語にも実質的提示語にも当てはまります。これを要すれば、主体にしろ、客体にしろ、実質にしろ、これらは補充性の連用語でありますから、一定の統率語を予定しております。また統率語のほうでも主体や客体や実質がなければ、完全な概念になりませんから、従属語が提示されて補充語ではなく修飾語になったにせよ、補充性としての従属語をまったく無視することはできないということです。先の例で言えば、「私は酒を飲む」という文では「酒を飲む」が被修用語でありますが、これはある主体の動作を叙述しておりまして、その主体は主体的提示語により暗示され、為に「飲む」は合主化しておる、という風に理論上説明されるのです。「私は酒を飲む」を主語を補って表せば、「私は、(私が)酒を飲む」となりますが、そんな風にしなくても主語は提示語により暗示されておるのです。




属性的提示語についてはちょっと問題があります。そもそも属性的提示語とは、平説の修用語であるものを提示したものを指して言いますが、平説の修用語といいますのは、もともと修飾語であります。補充性の連用語ではない。つまり端から被修用語に対して必須の概念ではありません。必須の概念ではないのですから、それが無くてもなんら怪しむに足らない。たとえば客体の提示であるなら、客体が提示されることで被修用語内の動詞が非帰着化することで、これは客体が提示されたものではなかろうか、と察せられるにもせよ、属性的提示語の場合はそうはいかない。そのためこれが提示された場合には、それが平説の修用語と区別が付きにくくなる。付きにくくなるのではありますが、概ね文脈から難なく平説か提示かは分かる。ちょっと例を見てみましょう。

為病不能出仕
ごく普通に病が原因で出仕することができないのであろうと意味が分かる。平説か提示かなどを知らずとも文脈から自然と読める。


以困窮不受財

これも、困窮を以っては財を受けずとすぐに分かりましょう。文脈により読める。しかしこの二つ文法的に大きく異なっておるのです。上の「為病」は平説の修用語であります。それに対して「以困窮」は提示された修用語です。

修飾性の語の提示に困難があるとすれば、もとより被修用語内に欠けた概念がない。他の提示語は実質化し修飾語になったとはいえ、本性として補充性を含むのです。

この文は「以困窮」という属性を提示して、これを判定するに成立するところの作用を以ってするということです。分かりやすく訳せば、「困窮を以っての場合はどうかといえば、(その場合を以って)財を受ける、ということはない」というのです。()で補った部分は修用語ですから、もともと必要ないのです。よって外形上この部分の修用語が提示されたのか、もともとの平説の修用語なのかが、判然としないのです。「以困窮」の三字が「不受財」に平説に懸かるのか、本来「受財」に対する修飾語であるのかは、語順を並び替えてみるとよりはっきりします。

「以困窮不受財」を並び替えて、

不以困窮受財

としますと、これはよく意義が通じる。もともと修用語としてあるべき位置に「以困窮」が置かれたためです。原文はこれを提示したのです。為に、元からの修用語か提示語かが判然としなくなるのです。次に「為病不能出仕」を同じように並び替えて、

不能為病出仕

としますと、文法上間違いではないにしましても、「病気を原因として出仕する、ということは出来ぬ」の意となって、当初の意とはまったく異なってしまう。これは原文の「為病」が「不能出仕」に対する平説の修用語であり、「出仕」に対する修用語ではないからです。


こういうのは訓読を下から上に向かってやってみるとよい。

「為病不能出仕」であるならば、「出仕する能はざること病の為にす」で、意義が通っておるなら平説であり、そうでなければ提示であります。解釈しだいということです。

「以困窮不受財」も「財を受けざること困窮を以ってす」と読んで意義が通じておると思うならそれでよいが、普通に考えるとやはりおかしい。なぜ財を受けないことを困窮がためにするのか、困窮であるからこそ財を受けるのではないか、と。そういう疑惑が生じたら提示として考えてみればよい。すなわち「困窮の場合を以ってはどうかといえば、(その場合を以って)財を受ける、ということはせぬ」と。選挙に出るのに金が要る、会社をやるのに金が要る、という場合には金を受けるが、貧乏を理由には金をもらわぬということ。

「酒吾不飲(酒は、吾飲まず)」などの「飲」を提示による非帰着化というのでありますが、上記に述べたこともこれに類することでありますから、どうにか名前を付けたいところなのですが、ちょっと難しい。提示による合主化や非帰着化といいますのは、提示によって被修用語内の動詞が必然的に主客体に対し絶対化することでありますが、属性の提示の場合にはもともと被修用語に対して補充をしておるわけではありませんから、主客体が欠けておるが如きとは区別されるからです。つまり提示の為に修飾語が不要になるのではなく、もとから不可欠のものというわけではありません。「以困窮」も「為病」もこれあるが為に文が詳しくなるというのみで、主語や客語などの補充的であるのとは大きく異なるということです。それでも合修用語化または、非被修用語化とでも名付けておくことの観念を想起し易きには及ばんでありましょうか。




直感的観念上「不以困窮受財」となるべきものが「以困窮不受財」となれば、提示。
また「以困窮不受財」が「不以困窮受財」としても、さしたる差無く通じれば、「以困窮」は提示。
提示でなければ平説ですから、下の詞に平坦に従属するのみ。これらは解釈によって判断します。




大寒為之不重裘 (平説・白虎通義三綱六紀)
與世無營 (提示・幽憤詩)

下から上に返ってみればよくわかる。皮衣を重ねないことを之(友)の為に大寒に於いてするのです。大寒のときは、友のために皮衣を重ねないのであります。「友のために」ではありません。それでは提示と解したことになります。提示であるならば、「大寒不為之重裘」としても意義に大差ないはずでありますが、これでは「友のために皮衣を重ねる、ということはしない」の意になってしまう。「與世無營」は下から読むとちょっとおかしく感ぜられる。営むことをしないことを世とともにするとなる。そこで提示と考え、「世と営むことをしない」の意とするのです。「無與世營」の「與世」が提示されたのです。「世とともにすることについてはどうかといえば、(それとともに)営む、ということをしない」というのです。




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