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韓非子外儲說右上

韓非子(外儲說右上)よりいくつか気になる文法事項を書きとめておきます。佐々木藤之助氏は漢文学習の秘訣の一つとして、「複雑な構文に出会ったときにはそれを抜書きして練習することだ、著者はかくして十二三の短文を得た。あまり多くはないものである」と述べておられますが、細かい文法を気にし始めますと、少しく読書すれば其のたびごとに書き留めておくに足る文例にあたるものです。以下其の例です。
由之野也、吾以女知之、女徒未及也、女故如是之不知禮也、女之餐之、為受之也
孔子の弟子の子路が自費で民に施しをしてやったことを孔子が責めた言葉の一部であります。「由之野也」は一種の感嘆でありますから、由(子路のこと)は粗雑であるなあ、の如く解すればよいのでして、「~之+動詞+也」の構造であるからとて、表示態名詞化して「由の粗雑であること」とはしません。しかし文法上は主体的連体語と被連体語との関係であることに変わりはありません。

「如是之不知禮也」は、「是くの如くこれ礼を知らざるなり」などと一般に訓まれますが、「聖人垂教、不如是之迂也」の「如是之迂」と同じ句法と看做せなくもない。「如是之迂」が「是くの如きの迂なる」であるように、「如是之不知禮也」も「是くの如きの礼を知らざる」であります。一旦表示態名詞化して再び叙述態名詞になります。

訳せば「お前は粗雑であるなあ、私はお前が之をわかっておると思ったがまだ分かっておらぬようだ、

「是くの如くこれ礼を知らざるなり」のように「如是」を連用語とした場合 ⇒ お前は故(まことに)そういう風にして礼儀を知らないのだ

「是くの如きの礼を知らざるなり」のように「如是」を連体語とした場合 ⇒ お前は故(まことに)それほどの礼儀知らずというものである

このような文法的構造と考えれば「如是之不知禮也」に「不」を付けて、「不如是之不知禮也」としても何も違和感なく訓めましょう。以前に見ました「是不亦責於人者已詳乎」の構造と同じです。読み下せば「是くの如きの礼を知らざるものならざるなり」となります。「不知禮なるものならず」に同じ。



令之昆弟博
「博」は「博戯」に同じ。すごろく。一般に「之をして昆弟と博せしむ」と訓みますが、ちょっと読み難い。もし理屈を強いれば「昆弟」を平説の修用語とし、動作の対手を表すに動作の方法を以ってしたとでも説明することになります。「郷人飲酒」の「郷人」などに同じ。また稀な用法とは言え「之」を寄生形式副体詞として「之(この)昆弟をして」と訓むことができないわけではありません。註には「令之之之作與(令之の之は與と作す)」とありますから、これに依って書き改めれば、

令與昆弟博 (昆弟と博せしむ)

となります。これは特に問題ない。



乃輟不殺客大禮之
殺そうかと思ったが止めて、却って客としてこれを優遇したということであります。この「客」は松下文法に所謂名詞性動詞の他動性用法として看做せばそれでよく、註にも
客客待也、属下句 (韓非子翼毳)
とあります。「客は客待なり、下句に属す」と訓みます。この註によって「客大禮之」は「客として大いに之を礼す」とでも訓むことになりましょう。「客」は前回扱いました処置的他動です。「之を処置するに客的状態となして大いに礼するを以ってする」のです。

然るにまた註には、
客下一有而字
客絶句
「客の下に一に而字有り」「客は絶句なり」とあります。この解釈に則れば「乃輟不殺客、而大禮之」と書き改め、「乃ち輟(や)めて客を殺さず、而して之を大いに礼す」とでも訓むことになりましょう。この区切り方は、前に「客張季之子在門」との句がありますから、解釈上も亦自然であるのです。「客」の一字が、「客を」か「客として」か、一方は名詞で、他方は変態動詞であります。解釈の定まることなくしては、文法も決定され得ないのです。


犀首也羈旅新抵罪其心孤

塚本氏の本ではこれを「犀首也羈旅、新抵罪、其心孤」と句読してありまして、「犀首や羈旅なり、新に罪に抵(いた)り其の心孤なり」と訓まれております。新釈漢文大系では「犀首也羈旅新抵罪、其心孤」と句読し、「犀首や羈旅にして新に罪に抵る、其の心孤なり」と訓んであります。さらに解説には、事柄の順序の上よりして「犀首也新抵罪羈旅(新に罪に抵りて羈旅なり)」の如く解釈すべきであるとあります。すなわち罪を得たことを原因として外国にて臣たる身であるというのです。しかしこれは客観的時制上の話で、観念上は「羈旅」なる概念がまず在りて、後に「新抵罪」なる概念が来るとするも何ら不都合はないわけでありますから、殊更に客観的時制に合わせるに及ばないと思う。日本語でも「帽子を売る、町へ行く」との二つの概念を必ずしも客観的時制に合わせて、「町へ行って、帽子を売る」とばかりはしないでしょう。「帽子を売りに、町へ行く」(目的の一致格といいます)ともいえるのです。目的のための方法(町へ行く)を先に言おうが、目的(帽子を売る)を先に言おうがそれはどちらもあり得べきことであります。

林間暖酒、燒紅葉
などは、上記の理屈を当てはめて、すなわち「林間暖酒」を目的とし、「燒紅葉」を其の方法として考えれば、「林間酒を暖むるに、紅葉を焼く」と訓めましょう。しかし漢文では日本語のような助辞が無いため、妄りに入れ替えるとよく分からなくなるのでありますから、此くの如き例文などは方法格の一運用として看做されることになるのです(『標準日本口語法』二百六十八項)。読むには、「酒を暖めんと(の観念あり)て、紅葉を焼く」とします。主観的には「酒を暖める」が先なのです。


話がそれましたが、これは「新に罪に抵るに羈旅とあり(たり)」と訓むもよい。旅の空にて臣事しておるのは本国にて罪を得たるに於いてするのです、為に其の心はさびしい、というのです。「羈旅たることを新抵罪に於いてする」のです。




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