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杉田玄白 『解体新書』

以下は「解体新書」の凡例を記した箇所。
赤字は私が入れたもので、それぞれの箇所に簡単な文法的説明を施していきます。「何項参照」とあるのは、松下博士の『標準漢文法』における該当箇所です。



(い)
「斯」は副体詞(この)。代名詞の連体格的用法(これの)ではありません。副体詞「斯」は連体格として下の「書」に従属します。すなわち「斯書」は連体関係の連詞。連体関係の連詞の代表部(統率部)は被連体語の「書」で、これが名詞ですから「斯書」は全体として連詞的名詞。この連詞的名詞は修用格的用法(題目語)にあります。「斯書譯某書(斯の書は我、某書を訳したるなり)」と「我」を補うと分かりよい。

主体的提示語と看做した場合、「斯の書は、和蘭人(オランダ人)与般亜単闕児武思(ヨハンアタンキュルムス)の著すところの『打係縷亜那都米(ターヘルアナトミイ)』を訳したる者なり」と「米」の字から「訳」に返って読むこともできますが、此の読み方はやや理屈に流れすぎたものといえましょう。原文の訓点に従って読んだ場合は、「斯の書は、和蘭人(オランダ人)与般亜単闕児武思(ヨハンアタンキュルムス)の著すところの『打係縷亜那都米(ターヘルアナトミイ)』なる者を訳す」となります。この訓み方でよいと思います。

(ろ)
「和蘭人」と「与般亜単闕児武思」との連詞関係は修用関係。「和蘭人」は名詞にして平説的修用語。「聖人孔子」の「聖人」と「孔子」との関係に同じ。「聖人の孔子」との違いに注意。(『標準漢文法』六百八十七項、「事物の種類の修用語」参照)

「与般亜単闕児武思」は既に「和蘭人」という類の概念で以って修飾されておりますから、これは固有名詞でして模型名詞ではありません。仮に「与般亜単闕児武思、和蘭人(与般亜単闕児武思は、和蘭人なり)」とあれば、この「与般亜単闕児武思」は模型名詞。なぜなら、「与般亜単闕児武思」は人を指すのでなく、固有名詞を指すためです。人を指すとしての名詞ならこれもまた固有名詞。その名詞が模型名詞か、然らざるかはその名詞の運用次第。

(は)
「打係縷亜那都米」は模型名詞。「医学書」と言えば普通名詞。ここでは概念を表すに表象の模型を以ってしておるのです。「者」は前語の外延の再示。「打係縷亜那都米」と「者」との関係は実質関係。実質関係の連詞の代表部は形式語でありますから、「打係縷亜那都米者」の代表部は「者」(単純形式名詞)。其の格は「訳」に対して客格的用法。

「連体格的用法」や「修用格的用法」、「客格的用法」などと、わざわざ「的用法」と持って回った表現をしておりますのは、漢文の詞には明瞭に格を示す記号がありませんで、そういうのを一般格といいます。「酒持って来い」の「酒」などと同じです。一般格ではありますが、用法は種々あるわけです。そこで「~的用法」という表現をしておるのです。客格的用法は客格ではないのです。客格は「酒を」なのです。「酒持って来い」の「酒」は一般格の客格的用法というのです。

(に)
「就」は「就之」の意。

説話の続きの上から客体が決まっている場合には客体が概念化せずに済むから客語が要らない。 (『標準漢文法』六百四十二項、一般性非帰着化(三)参照)

(ほ)
「者」は主体的用法(「者」の用法。百十二項参照)。「受」の主体を表します。「受」は「者」をして自らの主体を表さしめて、これに対して実質語となります(五百九十三項「特殊性合主化」参照)。「someone who 就受 其の医術(ソレガ其の医術を就受するソレ)」の意。学習者本人を指します。もし「所就受其医術(就いて其の医術を受くるところ)」とあれば、これは自分が師事するところのオランダ人医師を指すことになります。すなわち、「someone under whom  (主語) 受 其医術」の意。

(へ)
「有」「無」「多」「少」などは皆帰着性の動詞で、客語を取るものです。主語が動詞の下に来るなどと考えないように。「有嶋」は「嶋を有り」であり、この「有」は自然的他動を表し、「嶋」はその他動性に対する客語です。日本語で言えば、「嶋が在る」ではなく、「嶋有り」です。(帰着形式動詞「有」については百九十三項参照)

然るに原漢文においては客体概念が提示されています。平説に「オランダ人に就いて其の業を受けるものが多い」と言うのでなしに、「受けるものについてはそれは多い」と提示されておるのです。(「提示的修用語(直接客体の提示)」七百一項参照)

(と)
「至」は一般性合主化。

其の詞の意義上主体が一定している事件を表すものは合主化する。 (六百項)

この「至」の主体は何か、何が至るのか、「場合」が至るのです。彼らの術を学んでやっと生活が出来るというくらいであるから、どうしてその「場合」が、彼らの書を読み彼らの学問を研究する「場合」に至らんや、というのです。

(ち)
「精乎」は実質関係の連詞。「乎」は無論無くとも構いませんが、これある為に「精」が依拠性であることが明らかになります。漢文の名詞は格を表すに粗なため、形式動詞で其の不備を補うのです。「乎」は前語の動詞の依拠性なるを表す単純形式動詞です。「精乎」全体で連詞的依拠性動詞となります。すなわち次に来る語は依拠格的(~に)であります。

(り)
この「者」は客体的用法(百十四項参照)。「意者(おもうに)」の「者」の用法もこれに同じ。直訳的に読めば、「ソレヲ思うソレ」であります。「所意者」とした場合は意味は同じですが、この「者」は「所意」の「所」を指し示すものでして、「意」の客体概念は「所」が表します(百十八項(七)参照)。

(ぬ)
「徳乎」はさきの「精乎」と同様、連詞的依拠性動詞。「有徳乎四海者」全体は連詞的名詞で、題目語(修用語)。

(る)
「作用異常」の「異常」は、図の送り仮名にある通り、「常に異なる」と読んでおりますが、これをもう一度漢文に直すと「常異」としてしまう人もおるかもしれない。我々の感覚では「常に」と言えば修用語に聞こえる(無論修用語の意味にも使います)、しかし、原文の「常」は依拠格でありまして、「異」という作用が「常」において行われると謂う意味での「常に」なのです。「先日聞いた話に異なりて」の「に」と同じです。「常」は修用語ではなく、客語です。もちろん、「異常(いじょう)」とそのまま音で読むも可。

(を)
この「得」は修飾形式動詞(『改撰 標準日本文法』では「接頭形式動詞」としてある)です。被修用語によって実質的意義を得る形式動詞です。日本語の例を挙げれば、「も言はず」「打ち忘る」「掻き曇る」などの「得」「打ち」「掻き」であります。ただこれらも一詞化(単純観念化)すれば修飾形式動詞ではなく、助辞(接頭辞)となります。

「打ち」や「掻き」は、大槻文彦博士(祖父は杉田白、前野良の弟子である大槻玄沢)の『言海』にはこう説明してあります。

打ち鳴らす、打ち砕くなどは、打つ意あるを、かやうに多く他の動詞に重ね用いるよりして、遂に唯其の意を強くするばかりの用ともせしならむ。

動詞の意味を強くする接頭語。

要しますに、形式的意義のみにて、実質的意義は後語によって補充せられるのです。「打ち忘る」全体で実質・形式相備わる動詞となるのです。

「得て言はず(不得而言)」と言えば、「得」は修飾形式動詞でありますが、「言ふを得ず(不得言)」と言えば、「得」は帰着形式動詞です。漢文の場合は、間に「而」があれば修飾形式動詞であることが明瞭になりますが、なければ不明瞭になります。

また漢文の「得而」は概ね否定か反転語となる場合に用いられます。ここも上に「靡(なし)」という否定語があります。

(わ)
「業」は動詞。厳密に云いますと、名詞性動詞(変体動詞)の思念的用法(~とす)というものです(四百三十六項(三)参照)。「~にす」と解すべきものは客観的用法といいます。たとえば、以下のようなものがそうです。

是欲臣妾我也、是欲劉豫我也 (戊午上高宗封事)

「臣妾」も「劉豫」も名詞性動詞の客観的用法。「使我為臣妾(我をして臣妾ならしむ)」「使我為劉豫(我をして劉豫ならしむ)」の意。実際に客体を変じて然あらしむることをいうのです。「我」は「臣妾」「劉豫」が臨時に帯びたところの「為」の他動性に対する客語です。其れに対して訓読したときの「臣妾に」の「臣妾に」は、自身が臨時に帯びたところの「為」の一致性に対する客語ですから、動詞の一致格的客語です。つまり、突き詰めて言えば、これも四百六十七項にある「動詞性再動詞」に分類することも不可とは言えないものですが、一致格的客語の材料が名詞であることに変わりはありませんので名詞性動詞とするの穏当なるには及ばないものです。

「動詞性再動詞」は、「其心(其の心を正しくす、または正しとす)」「我国(我が国を強くす、または強しとす)」などを言います。()内の訓読はそれぞれ客観的用法と思念的用法の場合です。一致格的客語の材料がいずれも形容動詞であることを確認してください。



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