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比較の相

支那の文学者、林語堂曰く、

更に注意せねばならぬのは、比較級及び最上級は、いくつかの物を比較するためにのみ用いられる、ということである。アメリカのギャングのアル・カポネよりもbetterな人間は必ずしもgood(善良)な男とは限らないし、中国の逓信大臣よりもmore honestな男が毛頭正直者とは言えないこともあろう。比較的な言い方をすれば、この学生はあの学生よりもolderではあろうが、絶対的に云えば双方とも真にoldであるとは言えない。それ故、原級(old)はどこまでも絶対的であるのに対して、比較級と最上級(older、oldest)は、相対的なものである。

かくして我々は、better manはgood manよりbetterなわけではないという結論に達し、同時に、the best manが実際にはbetter manより一段と善良なわけでもないことを知るのである。the best manは、単に残余の誰よりもbetterなだけである。もし、Aが十三歳、Bが十二歳、Cが十歳だとすれば、Aはたとえ、the oldestだとは言っても、たかだかBとCよりolderであるに過ぎない。其の上、Aは実際のところ、毛頭「old」ではないのである。



松下博士は、概念が比較的であるか、そうでないかを分けてそれぞれに比較態、区分態(英文法に所謂原級)という名称を附せられております。たとえば、山は高いといえば、この「高い」という概念は山を主としてその性質を表明したまでで、高いか低いかで言えば「高い」であるというわけです。こういう概念の扱い方を区分態といいます。比較態とは概念を区分的に扱うのではなく、或る者を対手にしてその程度を論じるのです。ある基準を設けてそれに対してはどうである、ということを論じるのが比較態ですから、必ず比較の対手を客語に取ります。比較の対手である概念を得て初めて全き意義となるのです。漢文の場合は動詞(連詞的動詞を含む)の下に「於、于、乎」の形式動詞を取って、さらにその下に比較の対手を客語として取ります。要しますに、漢文では比較を表すに依拠性を以ってするのです。我々が比較格を以って表すものを、彼らは依拠格を以って表すのです。



比較について、明治から昭和にかけての漢学者、服部宇之吉博士の論理学書の説明が分かりやすいので以下それを引用します。

【相対名辞と絶対名辞との別】

若し茲に一種の事件有りて二人(或は二物)若しくは多数の人(或は物)均しく此の事件に関係し而も之に関係するに就て各々其の分を異にし両方に対立する場合に於いて此の事件に基づきて双方の人(或は物)に与へたる名称を相対名辞と云ふ。之に反して斯かる関係なくして与へられたる名称を絶対名辞と云ふ。(省略)夫婦、君臣、因果等は皆相対名辞なり。(省略)茲に注意すべきことは何れの語も多くは両々相対して用いらるるものなることなり、例之ば長短、大小、美醜の如し、美とは醜に対する語、長とは短に対する語なり、美なくんば醜豈に獨り存せん、長なくんば短豈に獨り存するを得ん、されどもこれ等は唯両々相対するに止まり、同一の事実若しくは事件に其の分を異にして関係するにはあらず、故にこれ等をば相対名辞とは云はず。然れども若し二物を比較して一物は他物よりも長しと云ふ時はより長してふ関係に入り来る、二個の物名は相対名辞となる


特に下線部に注意してください。青下線部は、これは言ってみれば区分態のことで、赤下線部は比較態のことに当たります。

富士山と泰山とを対手せしめ、その一事件において一方より見れば、「富士山高於泰山(富士山は泰山により高し)」であり、他方より見れば、「泰山低於富士山(泰山は富士山により低し)」となるわけです。

すなわち、比較態とは、或る物と或る物とを一事に於いて関係させ、一物(主語)の性質(比較態の動詞)を他物(比較の客語)に対して論じたものであるということができます。「父」という概念が「子」という概念なくして了解せられないように、比較態の概念は比較の対手なくしては解せられないのです。

比較の相は概ね状態動詞(所謂形容詞)によって表されますが、比較的に考えられたところの動詞ならなんでも比較態になります。日本語で言えば、「歩くよりタクシーに乗ろう」などがその例です。「タクシーに乗ろう」という連詞的動詞が「其のほうが善い」という形式的意義を帯びて比較的に考えられておるために、その形式的意義の比較の対手として客語「歩くより」を取るのです。(『改撰 標準ニ本文法』六百七十七項)

漢文の例を示せば以下のようなものです。

身於為天下、則可以託天下、愛身於為天下、則可以寄天下 (莊子在宥)

「為」は本動詞で「治む」の意。赤字の「以」が比較的に考えられた前置詞性単純形式動詞です。「貴」は其れに対する補充語。「貴以身(貴ぶに身を以ってす)」という概念を「為天下(天下を為む)」という概念に対手させて考えておるのです。ただ単に自分の身を大事にする者を天下を託するに値するものであるというのではなく、天下を治めるという大なる事業に比較して、猶そんなことに頓着せずに自分の身を大事にするようなものこそ天下を託すに値するというのです。

為天下、寧貴以身 (天下を為めんよりは、寧ろ貴ぶに身を以ってせん)
貴以身、甚於為天下 (貴ぶに身を以ってすること、天下を為むるにより甚だし)

などというに同じ。

「與」について、松下博士云う、

「與」が比較の対手を表すのは其の修飾される動詞が「其のほうが優っている」といふ形式的意義を帯びるから、「與」が其の形式的意義に対して対手を成すのである。 (三百四十四項)







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