FC2ブログ

訓読の仕方

下の青字の部分を如何に分析するかを考えてみましょう。

鳥有周周者、重首而屈尾、將欲飲於河、則必顛、乃銜其羽而飲之、人之所有飲不足者、不可不索其羽也 (韓非子說林)



【訓読例】

塚本哲三 『韓非子』

人の飲みて足らざる有る所の者

其の註に曰く、「人も自分一人にて飲む能はざるときは、羽をくわえてくれる人、即ち補助者を要す」と。

小林一郎 『経書大講 韓非子』

人の飲むに足らざる所有る者


太田全斎 『韓非子翼毳』

所有二字倒置、凡欲有為事、而形勢有所窒礙者 (所有の二字は倒置なり、凡そ為す事有らんと欲すれば、形勢に窒礙するところの者有り)


興文社編 『韓非子講義』

人の飲むに足らざること有る所の者

その註に曰く、「飲不足は飲むこと能はざるをいふ」と。


小林氏の訓み方はこのままでは文法的に破格とはいえ、「所有」の二字を「有所」の語順に看做しての訓読かもしれません。また太田全斎の註に従えば、「人之所有飲不足者」は「人之有所窒礙者、飲不足者(人の窒礙する所有りて飲むに足らざる者)」とでも訓むことになりましょう。

塚本氏以外の三者は皆「飲不足」の「飲」を「不足」に対する客体の提示として考えての上での訓読でありますが、塚本氏独りはそうではなく、「飲」を下の詞に対する方法格として訓んでおられます。方法格として読んだ所が、「足」が被修飾形式動詞となりますから、意義は同じになります。「攻めて可なり(攻而可)」と「攻むるに可なり(可攻)」との関係に同じ。「可」なる形式的空虚を補充するに、修用語を以ってするか、客語を以ってするかの相違のみであります。

卑見を申しますと、これはこう読むと素直に解せると思います。

人之所有、飲不足(者)

前者と後者との連詞関係は主体関係(主語と叙述語)と考えます。そうしますとこう読めます。すなわち、「人の有する所、飲むに足らざる者は(己一人の力にては飲むことが出来ない場合は)」と。「飲不足」は上の三者同様、客体的提示語の修用関係と看做して読んであります。もともと「不足飲」とあるべき「飲」を上に出したのです。「者」は場合の意で、「人之所有、飲不足」全体に対して形式語。「人の有する所、飲むに足らざれば」と読むも可。



文法上の成分に就いて「~と看做す、と考える」という表現を何度か用いましたが、これは漢文の場合は漢字一つ一つが文法的性能を明瞭に表示しておらないために特にそうでありますが、均しく是れ西洋の言語にも亦言えることでありまして、昭和の言語学者、泉井久之助氏の言にこうあります。

品詞の区分はすべて窮極は便宜的な妥協となる。言語における品詞は、すべて「となる」品詞であって、「である」品詞はない。 (『言語の構造』四十七項)


スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ランキング