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「如何」と「何如」

河北景楨は、其の著『助辞鵠』に於いて、「何如」を以下のように説明しております。

「如何」ト大要カハルコトハアラネドモ其詞ハ別ナキニ非ズ、如何ハ何ヲ主トシ何如ハ如ヲ主トス、如何ハコレハ何トシタコトゾ又コレヲ何トセンゾト云フコト也、下ノ何ノ字ニ重クカカル、何如ハ比類ヲ問フ詞ニテコレハ何様ノ事ゾ又何様ニアランゾト云フコト也、點爾何如ハソチハドノヤウニアランゾ也、臧文仲ヲ論ジテ何如其知也ヲ猶云何等様智ト註スルモ是ノ故也 (省略) 何如ヲ俗語ニ何似ニ作ルヲ以テモ其義オモフベシ

松下博士は「何如」を分類して二と為し、一つを「比較の何如」とし、もう一方を「単独の何如、如何」としました。而して
河北景楨の謂う「比類を問う詞」とはそのいずれに属するものかと言えば、「単独の何如、如何」であります。「単独の何如」は「何如」とすることも出来ますし、又「如何」とすることもできます。「何」が「如」に対する客体概念のためです。この「如」は「似る、ごとし」の意で、帰着形式動詞。「比類を問う詞」というよりは、「状態を問う疑問詞」というほうが穏当でありましょうか。「最近の調子はどうだ」の「どうだ」がこの「単独の何如」です。上記引用文中の論語の例も皆同じです。

*「何如」は自動のみでありますが、「如何」は他動もあります。「何に如(に)せん」と考えればよいです。「これを如何にせん」(他動)と言いたければ、「如之何」でありますし、「如何ともすべからず」「これを如何ともするあたはず」と言いたければ、「不可如何」「不能如之何」とすればよいのです。皆「如何」の語順であることに注意してください。「何如(何にか如(に)る)」(提示)よりも「如何(何に如る)」(平説)のほうが用法が広いのです。
上記は「単独の何如」の話でした。次に「比較の何如」について見ていきましょう。これについても
河北景楨の『助辞鵠』に言及されておりますから其の部分を引用しておきます。

又孰與ヲ何如と用フ、史記ニ王以為何如其父、唐詩ニ何如此地春ノ類此ノ義也、此等ノ何如ハ如何ニ作ルベカラズ

この「何如」は「
孰與」と対比せられておるところからも分かりますように「比較の何如」であり、上記で見た「単独の何如」とは性質が自ずから異なっておることに注意してください。この「何」は主体の提示語でして客体ではありません。また「如」は「似る、ごとし」ではなく、「如(し)く、まさる」の意です。「何がさあ如く、まさる」の意。

西田太一郎氏の『漢文の語法』(二百四十六項)でも、「
孰與(何與)」「何如」「孰若」等が一まとめにされて扱われておるのでありますが、文法的方面から言えば「孰與」と「何如」とは大きく異なります。品詞を論ずれば、「孰與」の「孰」は「いずれがまさる」の意の不定動詞で、「與」は比較の対手が依拠格であることを明示するための前置詞性単純形式動詞です。それに対して「何如」の「何」は名詞で主体的提示語(または副詞の内包的主体と看做すも可)で、「如」は「しく、まさる」の意の動詞です。「孰與」は実質関係の連詞で、「何如」は修用関係の連詞です。

この「何如」を「如何」にすることが出来ないのは、さきの「単独の何如」の「何」が客体概念であるのに異なり、主体概念だからです。もともと主体概念を表すものですから動詞の上にあるのです。提示するにしても、しないにしても、とにかく動詞の上にあることに変わりはないのです。「単独の何如」のほうは提示すれば上に出て、提示しなければ客語として帰着語の下にあるわけです。

塚本哲三氏の『漢文解釈法』(六百五十三項)では、「
孰若」の「若」を助字の一種にして無くてもよいものとして説明されておりますが、我々は「豈若(豈に~に若かんや)」の「若」の用法に比較してこれを「如」同様、「しく、まさる」の動詞として看做していきます。すなわち「孰若」は「孰れか~に若かんや」であります。

(與其有樂於身)、孰若無憂於其心 (韓愈・送李愿歸盤谷序)

(其の身に楽有るのに比べて)、何がさあ其の心に憂え無きにしかんや(まさらんや)(心に憂え無きほうがよい)、の意。もしこの文を以下のように書き換えたらどうなりましょう。

其有樂於身、孰與無憂於其心 (送李愿歸盤谷序 改作

身に楽有らんことは、其の心に憂え無きとはどうだ、いずれがまさる、の意になります。「
無憂於其心」は比較的に考えられた不定動詞「孰」の比較の対手です。

A孰若BA<B (AよりBのがまし)
A孰與B単純比較(A>Bの場合もあるし、A<Bの場合もありうる、ただそれは解釈上の問題であります。)

「與A孰若B」がBのほうが良いという意味になりますのは、「
孰」が提示されて語勢上意義が反転して、「なにがさあBに及ぶというのか、なにもBには及ばない、すなわちBのほうが良い」という意味に達するのです。


然るにこの比較の「何如(
孰若)」を直ちに「孰與」と看做すもまた不可とはしませんで、そう考えたほうが善いような場合もあるのです。たとえば『助辞鵠』に引用されております孟浩然の詩の「何如此地春」などが其の例です。もしこれを比較の何如として読めば、「何が此の地の春に如かんや(何もこの地の春には及ぶまい)」の意になりまして、また実際その解釈も行われておりますが、この「何如」を直ちに「孰與」と看做して読むことも出来るのです。其の場合には、「此の地の春とはいづれがまさる、此の地の春と比べてどうだ」の意になります。どちらも比較の意とは言え、前者は反転の意を含み、後者は単純な比較でありますから、趣が異なります。

王以為何如其父、父子異心、願王勿遣 (史記・廉頗藺相如列傳)


これなどは比較の何如と看做して読むの優れりと為すに及ばないように思われます。すなわち単純に
趙括と其の父とを比較するのでなくて、息子の趙括の一体何が父親に及ぶもしくはまさるであろうか、の意として解すべきだと謂うのであります。「趙括與其父奢、孰優(趙括と其父奢と、孰(いづれ)が優るか)」の意であるのではなく、「括為将、豈如奢之為将(括の将たらんよりは、豈(あに)奢の将たるに如かんや」の意であるというのです。

しかし、以下のような「何如」は「孰與」と看做したほうが善いように思われます。

汝意謂長安何如日遠 (世說新語)

「長安與日、孰遠(長安と日と、孰れが遠きぞ)」、長安は日の遠きと比べてはどうだ、の意でありましょう。

また「何」だけで「いづれぞ」と読むべき場合もあります。

誠令兵出、破軍殺將以傾國家、將軍守之可也、即利與病、又何足爭、一旦不合上意、遣繡衣來責將軍、將軍之身不能自保、國家之安 (漢書趙充國辛慶忌傳)

この「何」は『
助辞鵠』では「何如」の「如」の省略として説明されておりますが、「孰與」の意と考えれば「何與」の「與」の無いものとしても考えられましょう。つまり、「何」自体が依拠性を帯びた比較態不定動詞であり、「與」無しに直接に依拠格的客語を取ったものとも考えられるということであります。訓むには「国家の安きに何(いづれ)ぞ」となります。身を全うすると国家の安泰といずれがまさるか(死んでしまっては元も子もない)、の意。無論、「何」を不定の副詞として、「何ぞ国家の安きぞ」「何ぞ国家をこれ安んぜん」と読むも可。其の場合は、自らの身を安んずることができずして、どうして国家を安んぜられようか、の意。前者の解釈のほうが後文にある「是何言之不忠也(是れ何ぞ言の不忠なるや)」という充國の発言と繋がりがよいようであります。すなわち、一身の保全を国家の安泰と比べるとは何と不忠なことではないか、というのです。



王引之の『經傳釋詞』に曰く、

趙策曰趙王與樓緩計之曰與秦城何如不與(今本不與下又有何如二字、乃後人不曉文義而妄加之) (趙策に曰く、趙王樓緩とこれを計りて曰く、秦に城を与ふるは、与へざるに何如、今本「不與」の下に又「何如」の二字有り、乃ち後人文義を暁らずして妄りにこれを加ふ)

赤字の「
何如」は比較の何如とするよりも、「孰與」と考えるべきでありましょうか(*)。読む分には「秦に城を与ふるは、与へざるに何如(いかん、またはいづれぞ)」と訓めばそれでよいのでありますが、後人はそれに気が付かず、「與秦城何如、不與何如」と新たに「何如」の二字を付け足して、「秦に城を与ふるは何如、与へざるは何如」と単独の何如として解してしまったというわけです。


(*)『標準漢文法』(七百八項)には以下の例文の「何如」を比較の何如として挙げていることを考えますと、同じ構文である上記の「何如」も比較の何如ということになります。

予秦地何如毋予、孰吉 (史記・平原君虞卿列傳)

「比較の何如」とすれば、「秦に地を予(あた)ふる、予ふる毋(な)きに何れが如かん」の意と解する外ありますまい。


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