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漢文速成 三十三日間講座 (三)

今回でいよいよ「語の研究」が終わります。これが終われば皆さんはあらゆる漢文の語を分析、解釈できるようになるわけです。



【語の研究】


「熟語の研究」(前回の内容


第三類 形容詞


(赤字部分は松下文法との関連を補足したもの。)

【ア】同字を重ねたる者。所謂畳字。「たり」の仮名を附す。 「彬彬」の如し。(註)象形動詞です。「たり」を添えて読むと云いますのは、独立終止する場合のことで、他詞に従属する立場にあるときは、「として」を添えて読みます。もちろん「たり」に「て」をつけて下の詞に従属させてもよいのでありますが、不自然なので「として」を附けるのです。漢文では外見上何等の変化無く、それらの運用を行うのです。

【イ】同義の字を連ねたる者。「なり」の仮名を附す。「昭明」の如し。(註)これは何の変哲もない記号動詞。他詞に従属するときは、「に」「にして」などを附して読みます。

【ウ】数詞。「三百」の如し。「あり」の仮名を附す。(註)このような単なる数を基数と云います。数詞は一般に名詞、副体詞、副詞となりえます。「朝三而暮四」は「朝三にして暮れ四にせん」などのように、一致性を帯びた動詞性再動詞(変態動詞)に読むことが多いです。然りといえども、叙述態名詞として解するもまた不可とはしません。すなわち、「朝は三にして暮れは四なり」と。

【エ】数詞に異称を添えて数を謂うことあり。車には「乗」の字を添えて「車百乗」と云うが如し。(註)基数に「個」「乗」「本」「管」などを附して出来たものを、名数詞と云います。名数詞は概ね名詞なるも、副体詞になることもあります。たとえば「一本書」など。

【オ】不定の数を表すもの。たとえば、「幾日」「數月」の如し。(註)「幾」は副体詞。「幾日」「数月」は連詞的名詞。

【カ】多数を表す数詞。「多士」「衆星」の如し。

(註)上記いずれも「第三類 形容詞」としての分類でありますが、本性として動詞(形容動詞含む)であるのは【ア】【イ】だけです。それ以外は名詞で、判定性を認めた場合のみ所謂形容詞になるに過ぎず。是れ、詞の運用に過ぎないものであります。「衆星」などは結局「星」であり、名詞です。



第四類 動詞

【ア】意義相反する動詞を連ねたる者。「す」の仮名を附す。たとえば「往来」の如し。
【イ】同義の動詞を連ねたる者。たとえば、「號泣」の如し。

(註)【ア】【イ】いずれも連辞の単詞として可。

【ウ】副詞と連ねたるもの。熟語の動詞は多く音読すべきものなるも、この場合は必ず訓読します。たとえば、「相為」(あいなす)の如し。(註)修用関係の連詞。「相」は修飾形式副詞。動詞の相として「相互態」を表します(三百六十二項)。



第五類 副詞

【ア】同字を重ねたる者。「として」の仮名を附す。たとえば、「孜孜」の如し。
【イ】同義の字を重ねたる者。たとえば、「髣髴」の如し。
【ウ】「然」の字と連なるもの。たとえば、「沛然」の如し。
【エ】「如」の字と連なり、「たり」の仮名を附すもの。たとえば、「
豁如」の如し。
【オ】「
爾」の字と連なり、「たる」の仮名を附す。「卓爾」の如し。

(註)すべて象形動詞です。第三類形容詞の【ア】も再確認してください。叙述性(判定性)がありますので、主語も取れますし文を結ぶ力も持ちます。副詞のように見えるのは動詞の連用格的用法に過ぎません。

沛然德教溢乎四海 (孟子離婁章句上)
能於靜、則於動沛然矣 (黃宗羲明儒學案)
勢沛然矣 (王闓運湘軍誌)
布愕然 (史記黥布列傳)

沛然德教」は「沛然たる德教(動詞の連体格的用法)」もしくは「沛然而德教溢(動詞の連用格的用法)」の意とも取れますが、いずれにしましても動詞たる所以を失ってはおらないのです。



「たり」は「とあり」の約音。

明治昭和期の漢学者、松本洪先生の『漢文を讀む人のために』(百八項)にこうあります、ちょっと長いが参考になりますので引用してみましょう、

(「副詞」が動詞の上に直接冠せられて、其の間に何物も挟まないことを述べて以下に続く)

○始舍之、圉圉焉、少則洋洋焉、攸然而逝 (孟子萬章上)

といふ文がある。或る人が「悠然」は副詞だが、其の下に「而」があってよいかと質問した。此の文は、鄭の子産といふ賢大夫のところに、生きた魚を贈った人があった。子産は魚が生きているから、庭番に池に放てと命じた。庭番は狡い奴で、密かに煮て食ってしまって、子産には、

「始め魚を池に放ったら、何か苦しさうにしていましたが、暫くすると、良い気持ちになった様に、伸び伸びしていました。其のうちに悠然として遠くに泳いで往ってしまった」

と報告したら、子産はさうもあらうさうもあろうと言ったといふ。「悠然」が逝くといふ動詞の副詞なら、其の間に「而」があってはいけない筈であるといふ疑問である。之に対して私は「悠然」は副詞ではないと言ったら、或る人はハッと気が付いて、数年の疑いが解けましたと言った。何か禅問答染みているが、日本語に訳して、「トシテ」といふ助詞のつく言葉は、形容詞で、副詞ではない。

○浩浩乎平沙無垠 (弔古戰場文)

といふ語は「古戦場を弔ふ文」の書き出しである「浩浩乎として平沙垠り無し」と読む。「浩浩乎」は古戦場全体の見渡す限り何も見えない、ひろびろとした風景の形容詞であって、平沙無垠の副詞ではない。

「圉圉焉たり」「洋洋焉たり」は明らかに「たり」が附いて形容詞たるに疑ひはないが、従って悠然も魚の説明であることは、推して知るべしである。然らば悠然の主語が省略されて、悠然といふ一語だけで一文である。下の「逝」も主語が省略されて、一字だけで一文である。即ち「悠然而逝」は僅かに四字しかないが、これは複文で、上の文と下の文との間に「而」が挿入されてあるのである。又離婁上に、

○沛然德教溢乎四海

といふ語がある。之を「沛然として徳教四海に溢る」と読み、「沛然」は「溢」にかかる副詞と見る人が多い様であるが、それでは副詞と「溢」との間に「徳教」の二字が挟まれている事になる。之の「沛然」は「徳教」の上に被さっているから、徳教を形容する語と見て、「沛然たる徳教」と読むがよろしい。





第六類 感嘆詞

【ア】「嗚呼」、「於戯」など。「嗚呼噫嘻」などとする場合もあり。(註)実質感動詞です。




第七類 三字以上の熟語
(註)ほぼ連詞に相当。

【ア】周礼に「服不氏掌養猛獸而敎擾之」とあり。而して其の註に「服不服之獣者」とあれば、「服」は動詞、「不」は副詞にして、「氏」は名詞。今、合して名詞とせり。(註)「服不氏」はもとより名詞。分析の対象とはなりません。これただ「服不氏」の成り立ちを謂うまでで、出来た結果より見れば名詞のみ。

【イ】「巧言令色」は名詞として用いたり。「は」の仮名を附す。動詞に用いたる例を挙ぐれば「巧言令色足恭、左邱明恥之」と云うあり。「す」の仮名を附す。(註)「巧言令色」を名詞と云いますのは、論語学而篇の用法を指すわけでありますが、それは動詞性名詞もしくは体言としての意味でありまして、本性として名詞であるのではありません。すなわち、下図の二つ目の用法ということです。


終止格の場合は上図にありますように、「す」を以って読むことになりますが、無論動詞にも格はありますから、状況に応じて立場を変ずべきものであります。たとえば、「言を巧みにし、色を令くすれば(せば、すれども、すとも等)」など。「色を令くするトキ(場合)は」と読めば変態名詞の修用格的用法。三つ目の「巧みなる言、令き色」の「巧」「令」は動詞の連体格的用法。被連体語により統率されますから、全体として連詞的名詞となります。


【ウ】「文行忠信」 (註)論語述而篇の言葉(子以四教、文、行、忠、信)で、「文行忠信ナリ」と読めば日本語として動詞なるも、漢文そのものは名詞が判定性を帯びたまでであります。「知我者鮑子也」(史記管晏列傳)の「鮑子」と同じ。
【エ】「暴虎馮河」 (註)「巧言令色」に同じ。特に分類するには及びません。

【オ】「四十五十」。動詞なり。(註)第三類形容詞の【ウ】と何が違うか困惑するところでありましょうが、文法的に全く異なるところはありません。数詞です。数詞が名詞、副詞、副体詞と為り得ることは先に述べました。どの品詞であるかは其の都度判断しますが、下に「而」があれば叙述態名詞の方法格的用法であることが明瞭です。「三十而立」など。

【カ】戦戦兢兢。形容詞なり。「として」の仮名を附す。
【キ】切切偲偲。副詞なり。

(註)【カ】【キ】いずれも象形動詞です。

切切偲偲、怡怡如也、可謂士矣、朋友切切偲偲、兄弟怡怡 (論語子路)

如何に読もうが構いませんが、士としての有り様、性質に就いての発言でありますから叙述性があるというのです。ともに動詞であり、ただ格を異にするのみです。「(其の性質が)切切偲偲たれば(従属格)」「朋友には(其の性質が)切切偲偲たれ(独立格)」の如く主語を補いうるのです。


【ク】「迅雷風烈」は副詞なり。「には」の仮名を附す。「迅雷風烈ハ」と言えば名詞なれども、此の場合には副詞に用いたるなり。(註)論語鄉黨篇に「有盛饌、必變色而作、迅雷風烈、必變」と有ります。「迅雷風烈」はそのまま読めば「迅(はげ)しき雷にして、風烈しければ」と訓めますが、体言と考えれば「迅雷風烈には、必ず変ず」と読むことになります。しかし、この「迅雷風烈」を副詞というのはあまりよろしくない。動詞もしくは動詞性名詞の連用格的用法というのみ。また前半の「有盛饌」に対すれば、「有」を補って「迅雷風烈」の意と考えるも可。此の場合も「有」が連用格的用法にあるというのみです。


新楽金橘先生曰く、
(「烈風」と言わず「風烈」と云うは)調音の為なり。二字の熟語なれば「烈風」でも差し支えなきも、四字の熟語とするときは「ふ・く・つ・ち・き」の言い悪しき音の字なれば之を先に言う事は音調が宜しからず、書経舜典には「烈風雷雨」とあり、是れは先に「烈風」があればなり

【ケ】佐藤一斎翁の文に「余東都一窮措大耳」とあり。是は六字の熟語なり。「東都」とは名詞より転じたる形容詞と名詞なれば、「匠人」の構造に同じ。「一」は形容詞の数詞、「窮」は動詞より転じたる形容詞にして、「措大」は動詞と形容詞なれば「不祥」と同じく名詞に転用せるものなり。(註)松下文法に則って分解すればこうなります。「余」は名詞にして下詞「東都一窮措大」に対して修用語となり、「東都一措大」は被修用語。統率部である被修用語を更に分解すれば、「東都」が名詞にして(わざわざ「東」と「都」とに分解するには及ぶまい)下の詞「一窮措大」に対して連体語となり、「一窮措大」は「東都」に対して統率部で被連体語。この被連体語を更に分解すると「一窮」が連体語で、「措大」が其れに対して被連体語。「一」と「窮」を更に分解するなら修用関係と云うことになります。「措大」はこのまま「書生」の意と解せばよい。

要しますに、「余」に対する被修用語の代表部は最終的に「措大」ということになりますから、この連詞の代表部は結局「措大」ということになります。連詞の骨格は「余は措大なり」というに同じです。形式感動詞である「耳」は上語すべてを統率して全体を一種の感動詞にしてしまうのです。(改撰標準日本文法『主観的実質関係』六百八十九項参照)

結局読み下せば、「余は東都の一
窮の措大なるのみ」と。






ここに於いて興味を新たにしてもらいたいのは、品詞と文の成分との違いについてであります。品詞と云いますのは、「名詞」「動詞」「副詞」「感動詞」などの類で、文の成分といいますのは各々の品詞が連詞を構成するときに如何なる関係にあるかの観点より名づけたものです。即ち、「主語」「叙述語」「帰着語」「客語」「修用語」「被修用語」「実質語」「形式語」「連体語」「被連体語」の十種です。

「花が咲く」を分解して、「花が」が主語で、「咲く」は動詞です、といったらこれは実に具合が悪い。一方は文の成分で、他方は品詞であるからです。主語に対しては「叙述語」と言わなければならんのです。而して後、主語の品詞は名詞です、叙述語の品詞は動詞です、などと云うことになります。「静かに歩く」と言えば、「静かに」は動詞の「歩く」を修飾しているから副詞である、などと分解するのではなく、「静かに」は「歩く」を修飾しているから「歩く」に対して修用語であり、「歩く」は「静かに」対して被修用語である、と分析するのです。そうしてから、「静かに」は「(音が)静かに」の如く主語を取り叙述性があり(*)、且つ内包詞であるから動詞である、動詞の他詞に対する資格は何かと言えば、ここでは修用格である、などとこのように品詞なり格なりを研究していくのです。

(*)副詞には「テ」「シテ」を付けられませんが(頗るテ、嘗てシテ)、「静かに」は「静かにシテ」とすることが出来ます。即ち動詞の一格である一致格を持つと謂うことです。漢文で「静歩」として、これを「静かに歩く」「静かにして歩く」「静けく歩く」など如何様に読むも、漢文法に於ける「静」はただ一個の連用格的用法にある動詞というのみです。「溺れて死ぬ」を「溺死す」と云うように、「静かに歩く」を文法的直訳に読めば、「静歩す」ということになります。「溺死す」に於いて其の「溺」と「死」との修用関係たるを理解するように、「静歩す」で其の「静」と「歩」との修用関係ぶりを自得してもらいたい。



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