FC2ブログ

分からないものを分かる為の道筋

どうも分からないところを直接に分かるということは出来ぬ相談のようでありまして、既知より未知に漸進して行く以外に方法はないのではあるまいか、三段論法は既知より既知を引き出すとは雖も、やはり断案の既知たると、前提の既知たるとは自ずから精粗の差あることは疑を容れざるところであります。私の如き経験でも、分からないところが分かるときと云いますのは概ね既知のところを復習しておるときでありまして、復習中にふと知識が繋がることがあるものです。

未知を取りも直さず既知にすることは叶わぬことであろう、と頭では分かっておってもどうも分からないところがあると直様それを調べようとしてしまう、既に分かっておるところを更に精密に勉強することが近道であり、道理に適っておることなのでありましょうが、その作業を怠ってしまいがちであります。

然るに嘗て唐彪の『読書作文譜』を読んで居りましたところ、陸象山の言を引いてありましてそこに以下のようなことを述べてあるのです。
読書の作法を一通り学んだ後は、心を落ち着けてただ読書すればよい。必ずしも無理に其の旨趣を求めようとしなくともよい。分からないところは一先ず措いておけ(闕疑)。そうしたところで決して害はない。ただ分かるところを更によく分かるように心がけよ。そうすれば初めに分からなかったところも亦た自然に分かるようになるものだ。




この「闕疑(けつぎ)」の二字が重い。眼目でありましょう。「疑い」を持つな、捨てろというのではありません。しばらく置いておけというのです。「闕」は「全」の反対で欠け落ちたること。

以下の言葉もまた既知より未知に漸進していく法であり、其の意は一であります。これを実行に移せるかどうか。

吾之所以未得焉者、晝誦而味之、中夜而思之、平其心易其氣闕其疑、其必有見矣 (二程粹言)
讀書只是沈靜精密則自然見得分明 (勉齋黃)
毋過求毋巧鑿毋旁搜毋曲引 (北溪字義)

「吾の未だ得ざる所以の者は、昼誦して之を味はひ、中夜にして之を思ひ、其の心を平らかにし、其の気を易くし、其の疑を闕けば、其れ必ず見ること有らん」
「読書は只是れ沈靜精密なれば、則ち自然と見得て分明ならん」
「求むるに過ぐる毋かれ、巧鑿する毋かれ、旁搜する毋かれ、曲引する毋かれ」*「旁搜」は「旁引」に同じ。分からないところは一先ず措いておき、無理にこじつけて解釈するなと云うこと。

分からないところを主として、分かるところに及ぼすのではなく、分かるところを主として、分からないところに至るべきであると謂うのです。英文の解釈に当たり、分からないところを無理にこじつけたために、分かっておるところまで却って誤ることのあることを思えば思い半ばに過ぎましょう。




陸象山の言葉に附きましては、『陸九淵集』に原文がありますので、それを見てみましょう。

大抵讀書、訓既通之後、但平心讀之、不必強加揣量、則無非浸灌、培益、鞭策、磨勵之功、有未通曉處、姑缺之無害、且以其明白昭晰者日加涵泳、則自然日充日明、後日本源深厚、則向來未曉者將亦有渙然冰釋者矣





「揣量(しりょう)」はいずれもはかる意。意義をおしはかること。
「浸灌(しんかん)」は水にひたしそそぐこと。
「培益」はいずれも益し増やす意。
「鞭策(べんさく)」はむちうつこと。いずれもむちの意。
「磨勵(まれい)」はみがくこと。「勵」は特にあらとにて磨くこと。
「涵泳(かんえい)」は、「涵」はひたること。ここでは既によく分かっていることをゆっくりと自らに染み込ませること。
「向來」は従前。
「渙然(かんぜん)」はとけちる貌で、象形動詞。「冰釋」に対して修用語。
「冰釋(ひょうしゃく)」は氷が解けるように疑いが解けること。「冰」は主語ではなく修用語(品詞は変態動詞)であることに注意。




大抵読書は、訓詁既にこれに通ずる後は、但(ただ)平心これを読み、必ずしも強ひて揣量を加へず、則ち浸灌、培益、鞭策、磨勵の功に非ざること無し、或は未だ通暁せざる処有れば、姑(しばら)くこれを欠くも害無し、且つ其の明白昭晰なる者を以って日ごとに涵泳を加へなば、則ち自然と日に充ち日に明らかならん、後日本源深厚すれば、則ち向來未だ暁らざるもの、将に亦た渙然として冰釋すること有らん



  • 「訓既通之後」の「訓詁」は「既通」に対して修用語。名詞の平説的修用語か、客体的提示語かは不明瞭。もと「既通訓詁之後」の意だとすれば、客語が提示されたものということになります。いずれにしても「既通」に対して修用語であることに変わりはありませんので、大した問題ではありません。
  • 無非浸灌、培益、鞭策、磨勵之功」は、「非」が修用語で、「浸灌、培益、鞭策、磨勵之功」全体に掛かってます。これを仮に「X」とすれば、「無非X」となります。すなわち「Xに非ざること無し」となるのです。「非」は副詞で修用語ですから「非的にXなること無し」と考えれば直訳的です。「浸灌、培益、鞭策、磨勵之功」は単なる名詞ではなく、叙述態名詞。平心読書し強いて意義を穿鑿しないことが非的に云々の功である、ことは無い、の意。「無」は帰着形式動詞。
  • 「有未通曉處」は「有X」と考えればよい。すなわち「未通曉處」は「未だ処に通暁せず」の意ではなく、「未だ通暁せざる処」の意で名詞です。「通暁」は動詞の連体格的用法にある連体語。日本語では明瞭に区別できるところが、漢文の場合には外形上変化の無い場合が多いのです。文法の知識があれば、少なくとも文法的にはこうも読めるし、ああも読める、と云う風に文法と云う制限の中で試行錯誤できるわけでありますから、好き勝手に読んでまったく非文法的な読み方をしてしまうという憂えはないのです。
  • 「姑缺之無害」の「姑缺之」と「無害」との連詞関係は修用関係として読み下しましたが、無論、「姑缺之」で一旦切っても文法的に問題はありません。たとえば、「姑くこれを欠け」と動詞の終止格的(命令)用法として読むも可であります。
  • 「冰釋」は、名詞性動詞(変態動詞)です。たとえば、「雲散霧消」と言えば、「雲が散り、霧が消える」と云う風に主体関係の連詞と解さないように(もちろん解せ無いわけではありません)、この「冰釋」も「氷が釋(と)く」の意ではないのです。一種の修用語です。「釋」を「冰」で以って修飾、註解しておるのです。「氷の如く釋く」の意であるにしましても、それは意訳であり、直訳すれば、「氷と釋く」「氷と為りて釋く」となります。「氷と」の「と」は「夢と散る」の「と」に同じ。



スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ランキング