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客体関係の内部に提示語があり得べきか

秦の始皇帝の太后は多淫でありまして、立派なものを持つ嫪毐(ろうあい)という男を自分の側に置いておきたいと思っておりましたが、其の男が去勢の刑に附せられると聞き及びまして、さてどうしたものかと思案しておるところに宰相の呂不韋がやってきてこのように云った、

可事詐腐、則得給事中 (史記・呂不韋列傳)

「偽って刑に処せられたことにすれば、宮中にて召し使うことができますよ」といった意味であることは察しがつきましょうが、この部分の訓読の仕方というのが、二三冊調べてみた範囲では皆以下の如きものでありました。


返り点

『新釈漢文大系』も『史記列伝講義』もどちらも同じ解釈であります。返り点の打ち方に若干違いがありますが、結局「得」から「可」に返っております。果たして文法上このような返り方が可能かどうか。といいますのも、「可」は帰着形式動詞でありますから、下の詞(事詐腐、則得給事中)に対して帰着語であり、其れに対して下の詞は客語ということになります。

ここで問題となりますのは客語(事詐腐、則得給事中)の連詞中に於いて提示語があるということであります(これは「則」がある為に、「事詐腐」が提示されておることが明瞭となるのです。「則」は常に提示語。)。さて帰着語が、提示的修用語を内部にもつ客語を取ると云うことはどういうことでありましょうか。そもそもこれが許されるのならば、「不可何如」(「何」が提示語)も許されるべきでありましょうが、実際には「不可如何(如何ともすべからず)」の語順でなければなりません。また、

寡人有子、未其誰立焉 (春秋左氏傳閔公)
汝陳丞相已去、文丞相已執、汝何為 (續資治通鑑)

このような例を挙げて客体関係内の提示的修用語に問題のないことを言わんとする方もおられるかもしれません。しかし、これらの「知」や「欲」の類は理論上、帰着語としてではなく、帰着性従属的用法にある一種の修用語として看做すこともできまして、客体関係内に提示的修用語があると見られ得るものの殆どは、この帰着性従属的用法にある修用語と為して何等矛盾無く決着することができるものと思われます。すなわち曰く、「未だ其れ誰をか立つるを知らず」ではなく、「未だ知らず、其れ誰をか立てん」であり、「汝何をか為さんと欲す」ではなく、「汝欲すらくは、何をか為さん」であると。

このように考えてきますと、先の「可事詐腐、則得給事中」の「可」の部分が、たとえば「謂」であるならば、話は簡単でして、「謂」を帰着性従属的用法にある修用語と考えて読み下せばよいのです。そうしますと、「謂へらく、事腐と詐(いつわ)らば、則ち中に給事するを得ん」と読めます。然るに、「可」には語法上そういう使い方をすることがないのですから、帰着性従属的用法とはちょっと考え難い。客体関係内に提示的修用語があることもまた考え難い。そこで私は以下のように訓ずべきであろうと思う。
訓読


前者の「事」は「詐」に対する修用語ですので注意してください。「事可詐腐」とは異なります。後者は「事」を「為す」の意として訓んだものでありますが、両者いずれも「可事詐腐」を「得」に対する修用語と為しておる点は同じです。つまり、「ごまかすことが出来れば(可事詐腐)、宮中で召し使うことが出来る(得給事中)」ということです。



それからもう一つ、注意がありまして、「可事詐腐、則得給事中」に「」が無ければ、すなわち仮に以下のようであった場合です、

可事詐腐、得給事中 (筆者改作)
可事詐腐、而得給事中 (筆者改作)
こういう場合には「得」から「可」に返って読んでも何等問題ないのです(事腐と詐りて、中に給事するを得るに可なり)。「事詐腐、得給事中」または「事詐腐、而得給事中」の全体が「可」に対して客語になったとて何が問題になりましょう。「事詐腐」が素直に、つまり平説に「得」に対して従属しておると考えればそれで済む話です。上記の話は「則」あるが為に、すなわち客語内に提示語がある為に生じる問題なのです。
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