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簡野道明先生と魯仲連

明治から昭和に懸けての漢学者である簡野道明先生の小伝が簡野育英会のホームページに載っておりましてそこにこうあります、以下そのまま引用致します。
一歩を譲る

 先生の処世訓に「すべて物事は万事控え目にして、一歩を人に譲れ。」とある。仮に十だけの仕事をしたとき、十の報酬を得たとすれば、これは当然で正しい取引であろうが、社会奉仕という立場から考えてみると何も残らない。世の中で尊いものは無報酬の仕事である。無報酬の仕事を多くすることが人格の向上であり、徳を積み修行していく方法である。十の仕事で、五の報酬を得て満足すれば、五の仕事が残る。全然報酬を得ないで満足すれば十の仕事が世に残る。このような無報酬の仕事を陰徳というのである。陰徳を積み重ねていくと、やがて良い報いが表れてくるのである。こんな人はいつも心が広く、体も伸びやかであると言われている。また、十の仕事をしながら、十二、三あるいは二十、三十の報酬を欲しいと願い、もし得られたならば成功したと思い、幸運であったと喜ぶものがある。このようなものは、常に借金を負っているようなものであって失敗者であり不幸である。道に外れて金持ちになったとしても、それは浮き雲のようにはかないものである。実力以上に認められようとするのは誠に気の毒なことである。そんな人でも時には金持ちになり、栄えることがあるかも知れないが、それはほとんど期待 できない・・・と。


支那戦国時代の末期に魯仲連という在野の学者がおりまして、彼は趙の為に謀って国を救うほどの働きを致しました。そこで趙の公子平原君は彼を封じようと申し出ますが、固く辞して受けない、さらに千金以って致すも亦た固く辞して受け取らない。

そして魯仲連笑って斯く言うのです、「天下の士には貴ぶものがあります。それは人の為に憂えを除き、困難を解決するも、何も受け取らないということです。もし受け取るようなことがあれば、それは商人と同じです。私はそのようなことを為すに忍びないのです」と。






これまた簡野育英会からの引用であります、
清富論

ある亡き友の追悼録に書いている言葉に「漢学者は、ややともすればお金や品物など経済面を軽く視る癖がある。これは誤った考えであって、元の許魯斎が『学問は暮らしの道をたてることを第一とする』と言っているが、これは実に永久に変わらない戒めとして心に留めて守っていかなければならない。」と。これも簡野先生の持論であって「生前どのように立派な人であっても、その人が死んでから後、直ちに子孫が路頭に迷うようなことがあってはならない。清貧ということは美しい言葉であるが、褒めるようなことではない。妻や子が生活してい けるように考えてやるのも人の道として自然である。」と。また、「世間には、貧富にそれぞれ二通りあって、富の方には清富と濁富。貧の方にも清貧と濁貧とがある。清貧は最も美しいが、少し誤ると忽ち濁貧になり易い。しかし清富は人道に従って行っていけば、到達しやすく、また守り易いのである。人間は正当な努力によって清富を求めなくてはならない。」先生の清富論は以上のようなものであるが、先生はこれを立派に実現せられたのである。永年の困苦欠乏に堪えて、よくこの「清富」つまり、お金や財産を得ることができたのは、なみなみならない苦労があったであろうが、また、この成功の陰には大いに夫人の苦心があったのである。
許魯齋の言葉の原文を見ておきましょう。
學者以治生為急
漢文の学習に際し、はじめのうちはこういう短い漢文(十字から三十字前後)をたくさん読むのが良いと思います。私が塚本哲三氏の『漢文解釈法』を使って漢文を勉強し始めたときも比較的短いものを択んで練習しておりました。

この許魯齋の言葉を読むに当たって先ずどうするかということでありますが、今回の場合は既に意味も分かっておるのですからそんなに難しいところも無いと思いますが、もしそうでなければ兎も角まずよく見る、できることなら書き写すべきです。見ると云いますのはもちろん上から下へ向かって見るわけでありますが、もう少し詳しく申せば全体を全体として見るのです。字として見るよりは句として見るのです。上文で言えば、「以~為」の骨格を見抜くことであります。それさえ分かれば、「学者は治生を以って急と為す」と訓読することができるのです。

清史稿に上の言葉を註してこう言うております、これも試しに書き写して御覧下さい、これくらいの漢文は何も漢文法の力を借りずとも我々日本人にはよく読めるものであります、漢文といいますのは非常に入り易き学科なのです、

愚謂治生以稼穡為先、能稼穡則可以無求於人、無求於人、則能立廉恥、知稼穡之艱難、則不妄求於人、不妄求於人、則能興禮讓、廉恥立、禮讓興、而人心可正、世道可隆矣 (清史稿儒林)

ちょっと文の構造を見やすくしてみましょう。
愚謂治生稼穡
能稼穡可以無求於人無求於人立廉恥
知稼穡之艱難不妄求於人不妄求於人興禮讓
廉恥立禮讓興

人心可正
世道可隆
「愚謂」は「愚謂へらく」「I think」の意。「治生」は題目であります。「治生は」と読めばよい。暮らしの道を立てることの意です。それから「以~為(~を以って~と為す)」の構造を見抜くことが大事です。次に「則」の前後をよく見てください。「A則BB立廉恥、C則DD興禮讓」の構造になっておるのです。結局、農業を以って先務と為せば、立廉恥興禮讓であるというのです。そして廉恥立禮讓興にして後、人心可正世道可隆というのです。先に申しました全体を全体として見るというのは、このように文全体の構造を大まかに把握することを謂うのです。吉波彦作氏の文検用の受験参考書にこうある、

凡ての白文を訓読しようとするに際して、最も捷径であり適切であり、確実であるものは、造句法から考察することである。造句法の概要に熟達しておるならば、如何に未見の白文でも容易に訓読するを得ることは、私の経験上から確信して疑わないものである。 (『漢文研究要訣』)

ここに「造句法」とありますのは、簡単に言えば句の構造作法です。たとえば「立廉恥」を「廉恥を立つ」と訓読できれば、「興禮讓」も同じ関係にある句でありますから、「礼譲を興す」と読めるのです。これを「礼を興して譲る」などとしては、「立廉恥」と対になってる関係を無視してしまうことになるのです。対の関係になっておるものはそれに注意して読まなければなりません。「人心可正」もこれが「人心、正しかるべし」と訓めれば、「世道可隆」の「世道」も「世々道(い)ふ」などと読むべきでないことがすぐに分かる。なんとなれば、「人心」が名詞であれば、「世道」もまた名詞たるべきであるのです。これが対の意味です。






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