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漢文、白文の学び方

昭和の漢詩人、太刀掛 呂山氏曰く、

この頃よく、「私は小学校しか出ていないので、先生の文章に出てくる文法上の術後の意味が分かりません。そのために苦労します。どうしても漢文の文法をやらねばならぬと思っています。何かよい漢文典を紹介してください」と云う方が多い。

さて其の答えは困る。よい漢文典を紹介してあげようにもないのだから。

右の答えはもちろん不親切極まるものであって、漢文専攻者は明治以来の各家の漢文典をもっているだろう。高校の国語教師などは持っていないと言って良い。古本屋でも入手は頗る困難だ。

一体どうしてかと云うと、あまり必要がないから従って著述しても売れないし、市場に出て来ぬのである。僕自身も児島、広池、佐々木、世良、田森の諸先生のは持ってはいるが、高閣に束ねて読まぬ。『馬氏文通』なども見ることは殆ど無い。ただ、『詞詮』、『助字弁略』、『詩語解』などは、常に調べる必要があるから用いるが、こういうものは初心者には一行も読めるものではない。

森崎蘭外氏が語った言葉を思い出す、「初心の人に文法的術語を使用して説明することはいけません。その人に劣等感を与え、学ぶ意欲を失わせますから」と。

漢文の力などといっても、自分は漢文を五年間習ったことがあると言う人と、全然やったことが無いと言う人との間に詩を学ぶに際してのハンディはないと言ってよい。

「創作の立場からの対句法」には實字、虚字、助字の三分類で一生を通してよいと言う立場から説明しておいた。

ただここに一口に助字といっても、其の中身は一様ではないので、副詞とか、助動詞とか謂う言葉がどうしても説明に出てくる。

南窓読静古人詩 (南窓に読む静かに古人の詩を)

と作ってはならぬ。「静読」にしなくてはならぬという説明の際に、副詞とか連用修飾とかいう概念は必要になってくるからである。

そこで本論に立ち返って、遠隔の地にいる人々に左のように答えておく。

漢文法の本は入手できないし、必要もない。しかし、術語として副詞とか、助動詞とか、或は名詞とか、形容詞、動詞のごときものは、書物で勉強することはやめて家族の若い子弟児女に問いなさい。納得を相手がよく与えぬときは、中学校や高校の国文法の本を出させて質問しなさい。それで概念を掴む事ができればよい。


(中略)

漢文の力はどれくらい要るか。筆者の門下には小学卒だけで立派に詩人となっている人も沢山ある。要は入門してから必要とあれば自分がやる。詩が作りたいか ら漢文をやり、平仄韻字を覚えて、さて詩を作ろうというものではない。英語の習い始めから英作文があるのと同じだ。ただ詩は読まねばならぬ。参考書は前に あげた。更にそれ以上に進むためには唐本を読むようになる。しかし唐本となると高校漢文教師の力くらいでは読めぬ。然るに詩が相当出来る人はほとんどと 言ってよい程読めるようになっている。詩から読書力がつくのだ。

(補足)「静読」と書けば、「静かに読む」(修用関係)と読めますが、「読静」と書けば、「読むこと静かなり」(主体関係)と解せることに注意。

当ブログは漢文法を主として扱うにも拘わらず、上記のような文章を載せますは、物事には順序がありまして、他の言語もそうでありましょうが、特に漢文の場合には文法よりも漢文に慣れ親しむことが先決であることを、ここに亦た明らかにしておきたかったためです。しかし、漢文法の必要を無みするものではありませんで、真面目に漢文を研究しておれば当然文法にも興味が湧いてきましょう。それから後に漢文法を学び、国語や英語と比較するに至ればよいと思うのです。まだ其の時でないのに奮迅と為さんとすれば、成るものも却って駄目になってしまうものです。陸象山もかくいうております、「学問に志すものは、自らの分に従って学んでこそ益するところがあるものである、早く成長せんことを望みわざわざ苗を引っ張り、すべてを駄目にしてしまわないように気をつけよ(人茍有誌於學、自應隨分有所長益、所可患者、有助長之病耳)」


上記太刀掛 呂山氏の言葉は漢詩についての話でありますが、漢文も同じことでありまして、文法なり句法なりを一通りやってから漢文を読むものではない、戦前の参考書が殆ど解釈の中で漢文特有の語法を学ばせておりますように、まず漢文そのものに馴染むのが肝要であります。私自身も文法をやってから漢文を読み始めたのではなく、漢文を読み始め、然る後に漢文の訓読に疑問が生じ、そうしてから漢文法と云うものを勉強し始めました。以下の島田氏の言葉にもありますが、漢文に於いては、解釈が主で、文法が従であるというのは其の通りだと思っています。


幕末明治に於ける漢学者島田篁村の御令息、島田鈞一氏は漢文法と解釈とについてこうおっしゃっております、

漢文を研究するのには、よく其の文章の解剖をして、品詞の区別、文章の接続の具合などを詳細に研究する必要がある。兎角に漢文を読む場合には、漢文といふことにのみ頭を注いで、已知の知識を応用することを忘れている人が多い。中等教育を受けたものは、国語、外国語に就いて、文法は十分に知っておるはずである。文法上の概念は、いずれの語学、いずれの文学にも共通である。それ故特別に漢文の文法を学ばなくとも、漢文の字句を解剖する場合には国語、外国語の文法を応用すれば、漢文を理解する上に於いて大いに効がある。外国語は最初から文法が非常に必要であって、文法を知らなければ、文章を理解することは殆どできない。外国語は文章を一目すれば、縦令その文章の意味は十分理解できなくても、名詞は冠詞があり、動詞には変化があり、これ等の主要の言葉が分かっているから、その他形容詞副詞などの品詞は、文章上の形式で大凡察しられる。これ等の文法を基礎としてその意味を尋ぬれば、文章の解釈の上に、非常な助けとなるであらう。

然るに漢文の文法に就いて言ふと、名詞には、特別に名詞といふことを知る冠詞も無く、固有名詞を特別に大文字で書くといふ訳でもない。動詞には変化もなく、文章の大体が、全く理解されないで外国語のように、文章の形式だけで、すぐ分かることは難しい。漢文は大体の理解力を持っていて、問題に接触した場合、ほぼ理解しうる知識があって、中に難解の字句があった時に、初めて文法を応用し、解剖的に分解して、ここに正確に文章を理解することが出来るのである。外国語は文法が主で、解釈は従であるが、漢文は理解力が主で、文法は従である。漢文は、問題に対しておぼろげに意味が分かるだけの理解力が無ければ、文法を利用することは難しい。

『司馬君實為宋名臣』といふ文章を「司馬君は実に宋の名臣たり」と読んだものがあったが、そう読んでも文法から言へば別に誤りではない。ただ君實は司馬光の字であるといふ歴史的知識があって、初めて正確に読みうる。これは固有名詞であるが、その他の品詞でも、問題に相当しただけの理解力がなければ、とても文法を運用して正確に解釈することは難しい。

世には漢文を最初から、文法的に教へる人があるけれども、全く文法の概念もない初学のものに対して、品詞の区別などを漢文で教へるといふことは、一寸斬新の方法に見えるが、実は極めて迂遠な方法と思ふ。それは、漢文には品詞に就いて、国語や外国語ほどの精密な規則を立てることが難しいからである。最も漢文にも文法はあるに相違ない。言語文章がある以上は、文法のあるは当然で、支那に馬氏文通だの、日本にも数種の漢文の文法書があるが、いずれも皆専門的になっていて、学生の漢文研究としては、余りに繁雑でもあり、且つ必要も少ない。自分は学生に対しては、漢文の解釈力を養って、既に自分の理解出来た問題について、已知の国語、外国語の文法を応用して、文章を解剖し、正確に理解が出来れば、其れでよいと思ふから、漢文を解剖して正確に理解する予備として、国語、外国語の文法には正確なる知識を得て置く必要がある。最初から余りに繁雑な規則を設けて、この形式から漢文を取り扱うとすると、労して功少なきのみならず、却って非常な誤解を生ずることが往々ある。正宗の名刀も、これを使ふ人の技量によって功を奏するが、技量のないものは利用することが出来ないと同様で、漢文に就いては、文法は学生に相当の解釈力があって、初めて利用せられるのである。しかし、漢文には漢文特殊の字法句法(たとえば倒句法などの類)がある。これ等の如き、普通文法で説明のできないものは、解釈編に問題を説明する際に、その折に触れて説明しやうと思ふ。この漢文特殊の規則は、学生が十分注意して、記憶すると共に之を応用することを望む。

「漢文には品詞に就いて、国語や外国語ほどの精密な規則を立てることが難しいからである」とありますが、これに附きまして少し補足すればこういうことだと思います。すなわち、古歌にも『年のうちに春は来にけり ひととせを去年とや言はむ 今年とや言はむ』とあるように、定義に欠陥はなくても現実にはその定義の間をゆくようなものが出てくるものであります。名詞と動詞の区別は定義として厳密であっても、それを実際の文章解剖に応用するときに名詞か動詞か、どちらと云うべきか迷うものがあるものです。こういうことが漢文には特に多いというのです。何しろ外形上の変化がないのでありますから。因って、漢文にも規則は立てられるが、其の運用に当たっては判断に迷うことが起こりやすいというのです。

たとえば「喜」というのは名詞か動詞か、「喜び」「喜ぶこと」と言えば名詞として扱えますし、「喜ぶ」と言えば動詞として扱ったことになります。日本語では概念の運用に対応して名詞と動詞とを区別できるところが、漢文の場合にはそれが形の上には一切現れておらないのです。「喜」という概念が如何に運用されておるかは結局文脈なり、語の排列なりから読者が判断しなければならないのです。西洋の文章なら語の形がそれを教えてくれるのに、漢文に於いてはそれを読者の側が判断しなければならないのです。漢文の読書と云うのはそういう点で西洋の言語よりも難しいといえます。



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