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補語についてのメモ

メモというより妄言とで思ってください。ちょっと思いついたので書き留めておくのです。



現代中国語にても動作の状態を表さん為には、漢文と同じく被修飾語の前に動詞などの類を修用語として置くのです。即ち、

非常天真的笑 (非常に天真に笑ふ、無邪気に笑う)

の如きであります。「非常天真的(地)」は「笑」に対して修用語になっております(中国語文法では状語と呼ぶようです。)。松下文法で云えば、動詞の連用格的用法です。漢文との違いは、漢文は動詞を連用格的に運用したところで何かを付け足す必要は必ずしもありません。たとえば「疑行(疑いながら行う)」の類です。「疑」は何等の変化無く「行」に対して修用語となるのです。

この連詞は「笑」が文の成分として被修用語でありますから、代表部(統率部)と云うことになります。「非常天真的笑」の意味は要するに「笑う」ということです。「非常天真的」は単なる修飾語にして従属部です。

然るに、

笑得非常天真

とすると、どうでありましょう。これをも亦「無邪気に笑う」と訳せば、最初の文と区別が無くなってしまいます。

これは「非常天真」を代表部とする句でありますから、文法的直訳をすれば「笑ひ得て非常天真なり」とでもなりましょう。笑ってその効果がどうかと言えば「非常天真である」というのです。「言い得て妙」などと同じ気味です。これを踏まえて以下の例文を見てみましょう。

他睡得早、起得晩

これなども「彼は早く寝て、遅く起きる」というのではなく、もちろん解釈としてはそういうことでありますが、文の気味を保ったまま直訳すれば、「彼は寝ては早く、起きては晩い」または「彼は睡り得て早、起き得て晩」とでもするのがよい。こうすれば原文に於いて代表部である「早」「晩」を訳に於いても代表部として訳出したことになります。何より支那人の観念の連続の仕方を体感するに緊迫しておるように思う。「睡」という観念が先ず「得」という観念に連用的(修飾的か補充的か、ちょっと分からない。修飾的とすれば、「得」は被修飾形式動詞となる)に従属し、この大なる統合観念が再び「早」という観念に修用的に従属しておるのです。

しかし、ここに外形こそ同じなれど意義を異にするものがあります。たとえば以下のようなものです。

想得清楚

「想」は考える、「清楚」は明らか、はっきりしているの意。

この「得」は、漢文の帰着形式動詞の「得」と同様に考えて、「清楚なるを想得す」と訓めばよい。「考えてその効果が明らかなるを得」という形式的意義ありて後、「明らかに考えることが出来る」の意に至るのです。端から「明らかに考えることが出来る」と解釈したのでは、原文の気味を損なってしまいます。

先の例文は「笑得・・・非常天真」(修用関係)の如く分析され、この文は「想得・・・清楚」(客体関係)と分析されるのです。先の「得」は従属部で、この「得」は代表部です。先の「非常天真」は代表部で、この「清楚」は従属部です。

「笑得」「想得」の連詞関係は実質関係というべきか、修用関係というべきでありましょうか。


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