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勉強の工夫と白文の読み方の実際的順序について

朱子の読書法に勉強の工夫を述べてこう言うております。

もと学問の明らかにならないのは、表面上の工夫が足りないのではなく、却って自らに由って立つべき基盤がないからである。
(元來道學不明。不是上面工夫。乃是下面無根脚。)

この言葉の意味を発明するに資するものとして、松下大三郎博士と若かりし徳田政信博士の問答の一部を載せておきます。昭和九年冬の昼下がりに行われたこの問答が、松下博士と徳田博士の最初で最後の面会となります。即ち、松下博士、翌年昭和十年五月二日、五十七年の生涯を閉じることになります。

当時の文法書には、英文法に倣ったのか、能相・所相(打つ、打たる等)とか、受身・使役の転換(打たる、打たす等)とか、動詞と形容詞の転換(高し、高む、赤し、赤む等)というようなことが説かれていた。私(徳田博士)はこれが気に入らなかったのである。しかし、議論の上で完全に論破する決め手が得られなかった。そこで先生にお尋ねしたのである。すると先生は即座に、口ごもりながらも(筆者注:脳溢血後の後遺症のため)、たった一語に答えられた。曰く、『きりが無い』と。私はこれで胸のかたまりがスーッと解ける思いがした。なるほどそうだ、文法上の「転換」(言い換え)というのは、学問ではなくて技術である。何と何とにでも応用できる。こんなものが学問であるわけがない。そもそも原理として無用なのである。それを個々のケースごとに是非を論じようとしていたから、まったくキリがなく、論破できなかったのである。

松下先生は、一発でその本質を突かれたわけである。やがて、このようなことを書いてある文法書は、姿を消した。先生は、学問と技術とを区別し、また、スカラーとプロフェッサーとを峻別しておられた。真理を発見するのは、一人の探求者であって、十人のプロフェッサーではない。

本を捨てて枝葉の議論にはしるときりがない。幕末の学者、藤田東湖は『弘道館記述義』の中にこう述べてある、

善く疾病を治するものは、先ず一番に其の身を養生し元気を取り立てるものである。これと同じように異端を排除するにもやり方がある。いちいち個別にそれを攻撃して一時に快を取ることがあるにせよ、道の宜しきを得たものでなければ、醸成される禍変の突発を尽くは救いきれまい。異端を排するものは、枝葉に捕らわれず先ず一番に大道を修めるのが肝要である。

善治疾病者、先養其元氣、善排異端者、先修其大道、若徒攻撃驅除、取快一時、則禍變所激、將有不可勝救者、是不亦排之者未必得其道乎

漢文法

  • 「善治疾病者、先養其元氣、善排異端者、先修其大道」はきれいに対になっております。

治疾病元氣
排異端大道

「治」が動詞なら、「排」も動詞と推測できます。「治」と「疾病」との関係が客体関係だと分かれば、「排」と「異端」との関係も客体関係であろうことはやはり推測できるのです。「まず字眼を大局的に掴め、造句法を考えろ、兎に角対偶法(上記のような分解)に分解してみろ、明瞭なところから訓点を施し、形式的にでも漢文の組み立てを明らかにしろ」などというのが、佐々木藤之助氏や吉波彦作氏など昭和の学者の謂う白文の読み方の実際的順序第一位であります。漢文法の出番は、そのようにして文を幾つかの段なり節なりに分解して後の話です。ちょっと練習に下の漢文を見てください。孟子の一説でありますが、句読も何もない白文です。

父子有親君臣有義夫婦有別長幼有序朋友有信」

これをよく眺めて共通な形式を見つけ出すのです。これはもう機械的にやってよい。一種のパズルのようなものであります。しばらく眺めておれば、「父子」「君臣」「夫婦」などの塊が目にとまるようになりましょう。それに気が付けば、後はもう機械的に「長幼」「朋友」も塊として見えるはずです。

父子有親君臣有義夫婦有別長幼有序朋友有信」

とまあこういう風に見えてくる。ここに於いて「父子」や「君臣」などの後ろの二字をさらによく見れば全てに「有」の字が共通しておるのがわかります。もし気が付かなければ、「ゆうしん」「ゆうぎ」「ゆうべつ」「ゆうじょ」などと音で読んでみればよい。目には気が付かなくても、耳で気が付くこともあるものです。そうしますと結局こういう構造であることが分かる。

父子
君臣
夫婦
長幼
朋友

ここまで分解できれば最早漢文法の力を借りずとも凡その意味は取れるものです。訓読すれば、「父子に親有り、君臣に義有り、夫婦に別有り、長幼に序有り、朋友に信有り」となります。


  • 是不亦排之未必得其道」の「是」は修飾形式副詞。名詞と云うほどはっきりと何かを指しておるわけではなく、「すなわち」くらいの気味。「不亦排之者未必得其道」の構造は、「亦排之者未必得其道」に「不」が懸かり、更に反転しておるのです。構造を簡略化して示せば、「是不(亦X)」ということ。「是れ亦たXならずや」の意であります。()の中身は一旦表示態名詞化し、再び叙述態名詞化したものと考えればよい。「其道」の下に「者」を補うと分かりよい。文法的直訳をすれば、「これやっぱり異端を排斥する者が未だ必ずしも其の道を得ておるというのではあるまい、ということが違うか(いや、違うまい)」の意(五百三十一項、八百十八項参照)。「亦」は本副詞。接続詞でないから、「~も」の意味がないところに注意。これに同じ構造を漢文に求めれば、たとえば下のようなものがあります。

是不亦責於人已詳 (韓愈原毀)


「是不亦~者~乎」と全く同じ句法であることが分かりましょう。


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